不要不急とは何か

 新型コロナウイルス下で、「不要不急の外出は避けるように」と上下が叫んでいるが、人生において、真に何が必要で、何が急ぎなのか、など、容易にわかるものではない。

必要だと思っていたものがまるで要らなかったり、不要だと思っていたものが、意外に必要だったりする、といったわかりやすい例もさることながら、物や事や、人間は、そこにポツンと置かれるだけで、必要性がじわじわと発生し、それが形作られて確固たる意味を持って屹立しはじめるものでもあるからだ。

一般に、食料は「必要なもの」に分類されるだろうが、個別の品種に目を向ければ、「パンがなければケーキを食べればいい」し、コメが無ければ麦を食べればいい。ラーメンがなければパスタを食べればいいだろう。そうなると、パンもコメもラーメンも、厳密にいえば「不要なもの」になるだろう。

戯言を弄しているのではない。物事にはたいてい「代替物」があり、その相対的な視座から眺めれば、世の中に「必要欠くべからざるもの」など、一つもないのである。つまり、極端な話、世の中にあるものは、水と空気以外、すべて「なくなっても構わないもの」である・・・

・・・と聞いて、「そうだよな」と納得するバカもいまい。(いるかもしれないが)だから、この「必要なもの」と「不必要なもの」を客観的に分類し「不必要なものを排除する」ことができる、と考えること自体が、実は、とんでもない夢想なのである。

ためしに、「世の中には不要なものなど何一つなく、すべてが必要なもの」と、逆転して考えてみてはどうだろうか。もちろんこれも極端な考え方だが、実はこちらの方が、世の実情に適っているような気がする。

パンにも、ケーキにも、ラーメンにも、パスタにも、それぞれ、その生産や流通や販売をなりわいにして、強いやりがいや使命感を感じながら、自分自身や家族を養っている人がいる。そして、それをいわゆる「ソウルフード」にしている人たちがいる。そういう人たちにとって、それらは「あってもなくても構わないもの」とは、とうてい見なすことはできない。

もちろんこれは、食料品や日用品といった、身体の保健や成長を支える物だけにあてはまるのではない。芸術やスポーツ、アートや美容品、教育やイベント、人や動物との交流、旅行などなど、それこそ人間を取り巻く森羅万象が、人間の営為の多くが、「必要欠くべからざるもの」で充満しているのである。

今、政治家は、「床屋は要る」「居酒屋は要らない」式の議論をしている。政治というものは元来そういう機能を担うもので、そのこと自体を咎めるつもりはないが、 それに影響を受けて、「世の中に必要なものと、不必要なもの」を冷酷に判別するような思考回路が、人々の頭の中に社会に出来あがってしまわないか、それが心配である。