俵屋宗達「松島図屏風」

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 新聞に載っていた絵のスキャン。六曲一双の屏風が対になったおり、上段が左に配置するもの、下段が右に配置するもの。

 構図や、配色、琳派の始原たる宗達の歴史的位置づけなど、美術観賞上の、感性的、知的な目の付け所はいろいろあるのだろうが、個人的に驚くのは無数に描かれた波の紋様の精度である。うねるような曲線を等間隔で連続して描く高度な技術は、一般的に言って、相当な訓練が必要であり、もし訓練なしに作者がこれを出来ていたのならば、正真正銘の天才だと言っていいだろう。

 そして、これを描くときの心理状態も高度な「無心」、文学的に言えば、「無我の境地」に没入することが必要だろう。大画面に同様の作業を飽かず繰り返す膨大な心的なエネルギーは、睡蓮を描いたモネに通じるものがあると思う。

 なお、この波は実際の海の波の描写ではなく、多分に図案化したものだ。一方松の枝ぶりなどはほぼリアリズムで描写されている。つまりこの絵は、同じ画面上でデザインとドローイングが混交しているのだが、こういった表現は日本以外の文化圏ではあまり見られないものだと思う。

 例えば、西洋でも、肖像画を中心にして周囲をデザインであしらう、あるいは大理石彫刻の人体像の台座に装飾を施す、というようなテクニックはあるが、両者の領域は明確に分離されており、日本の画家のような同一紙面上で、デザインとドローイングを同居させるようなことはしない。

 こういう技法には、デザイン・パターンという静かな基調低音のベースの上に、リアリズムという強烈なアクセントを放り込んで、全体をドラマティックに演出するような効果があると思う。もちろん、おそらく宗達はそんな小うるさい計算づくで絵を描いていたのではなく、あるいはそんなことは何もかも了解して、身に着けた伝統技法と普遍的な芸術家の本能に従い、職人的着実さをもって、この絵を仕上げたに違いない。

 とにかく、妄想も含めて、見る人をいろいろな思考や感情に誘ってくれる絵である。

 

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