「足ひれ」がもたらすもの

 はじめてフィン(足ひれ)を着けてプールで泳ぐ。かなりの違和感を感じつつも、未体験のスピードが出る。自分は、普段クロールをするときは腕の漕ぎがメインで、ほとんど足を使わないが、ゴム製のフィンを着けた足は重いので絶えず動かしていないと沈んでしまうし、そもそも足を動かさなければ着けている意味がないので、懸命にバタ足をする。そしてその分ひどく疲れる。 

「導入するとすごく作業効率は上がるのだが、それまでなかった疲れ方が生じる」というありようは、ITに似ている。ITはそれまで人力で行っていた情報処理作業の負荷を劇的に軽減させたが、その代わりそれまで無かった作業項目と新しい疲労感を生み出した。 

今、人工知能導入の様々なメリットとデメリットに関する議論が巷間喧しいが、門外漢である自分にも確実に言い得ることは、人工知能は劇的な作業効率の向上をもたらすだろうが、それとともに新しい疲労感も招来する、ということである。その疲労に耐えることが、人工知能が人間の従来の仕事を奪った代わりにもたらす「新しい仕事」であるならば、そこからは「新しい」以外の価値を見いだすことは難しいだろう。 

自分は人間が道具や機械の力を借りて自己拡張を行ってきた歴史を否定するものではない。自動車は脚力をいくら鍛えても体験できないスピード感を味わわせてくれるし、インターネットは万巻の蔵書を誇る図書館を何年漁っても集まらないような情報を瞬く間に集めてくれる。(そもそも自分に、このような駄文を綴って公開する愉しみを与えてくれる) 機械が人間にもたらした自己拡張はかくも偉大なものだが、その拡張エリアには、効率性と合理性の陰に隠れて、苦痛と疲労の罠が地雷のように仕込まれていることは忘れない方がいい。 

新しい技術がどんな功罪をもたらすかは、その技術が発明された時点で検討がついた試しはないが、とにかく「功」一辺倒の技術が開発されたことは歴史上皆無でることは確かだ。今は、古代中国の思想家・荘子が「機心」というキーワードを掲げて説いた、機械による自己肥大化が人間にもたらすシリアスな罠を、再び直視する時だろう。ひょっとするとその罠に嵌まって足をバタつかせているありさまが「進化した人工知能が人間を支配している」姿そのものかもしれない。