過酷なお膳立て

 目が見えなくなるのと記憶がなくなるのと、どちらかを選ばなくてはならない状況になったらどうする、という議論をしたことがある。

たとえば、目が見えなくなるのと耳が聞こえなくなるのとどちらかを選ばなくてはならない、ということならば、選択肢が同じレベルにあるから比較しやすいが、「視覚」と「記憶」ではカテゴリが全く違うので本来この二つをならべるには無理がある。

しかし、本来比べられないものを強引に並べることから見えてくるものが有る。たとえば「仕事とあたしとどっちが大事なの」という古典的な難詰の定型句がある。もし自分がこういう問いをぶつけられたら、「仕事は君を大切にするために、そして、きみと豊かな時間を共有するために必要なものだ。そしてきみの存在は、ぼくにとって仕事をする意味そのものであり、支えでもある。どちらが大事なんて決められないよ」という答えを用意しているのだが、まだ誰もきいてくれない。

実を言えば、こういう答え方は一種の狡い「はぐらかし」である。「仕事とあたしと‥」という言葉は、質問の外形をとったメッセージであり、発話者が本当に言いたいことは、「もっとあたしを大切にしてほしい」ということに尽きており、そのまなざしから目を逸らしているかぎり、真の問題解決にはならない。このように、切実な本音を訴えるには、「本来比べられないものを強引に並べる」ことが、相手にもよるが、しばしば有効な手段となる。

もとの話に戻って、自分なりの答えを記すと、「目が見えなくなる」のは外界との交渉上の不如意である一方、「記憶がなくなる」のは個体としての独自性や自己存立基盤の喪失であるから、はるかに後者の喪失の方が重大である。

目が見えなくても幸福な人生はあり得るが、記憶をなくすことは幸福も不幸も味わう主体そのものの喪失だから、当然ながら幸福な人生もあり得ない。記憶を完全に喪失する以上の悲惨は人生にはほぼない。記憶の喪失は人生の喪失そのものである。

では、「人生の経験がほぼ無く、ろくな記憶もない赤ん坊は悲惨なのか」という問いが出てくるが、この問題を考える前に、そもそも「赤ん坊には記憶がない」という前提が本当なのか検討する必要があり、さらに考えを進めれば、そもそも「記憶とは何か」という原初的な問いに向き合わざるを得ないことにもなるだろう。

このプロセスを振り返れば、「議論」とは、俎上に上ったキーワードの概念を定義することにきわめて近似している真実にも至るだろう。一般的に、議論の前提に俎上に載せる言葉の定義が必要であるという認識があるが、実は、言葉の定義が議論の本質そのものであることが、けっこう多いのである。

「本来比べられないものを強引に並べることから見えてくるものが有る」というのはそういう意味で、人間はそういう一見理不尽な、過酷なお膳立てがあって初めて切実に思考する存在であるし、きれいにクレンジングしたデータを食べさせてもらわなければ回答が出せない人工知能と、形も硬さもまちまちな食材をバリバリかみ砕き滋養にできる人間頭脳の大きな違いもそこにある。