傷の美学

機会があり、徳川美術館にいく。

ここにはかつての藩主たちのためにあつらえた具足の展示がいくつかあるが、その兜の多くには小さな窪みがある。

そばの解説板によると、これは防御能力を検証する鉄砲による試し撃ちの跡だという。現代でいうと、自動車の衝突検査に似ていると言えるだろうが、自動車の場合、検査して破損した現物を売りに出すことはない。

つまり、現代では検査用の製品と販売用のそれは別物である。一方、具足は基本的に「一点もの」だから、検査をクリアした現品がそのまま納品される。つまり実態としては、「キズ物になって初めて完成品になる」というパラドックスの中に存在しているのだ。

そうみると、本来、兜の防御力の合格証に過ぎないこの小さな窪みが、その完成において欠くことができない一種の美的な構成要素のように見えてくる。

完成品をわざと破損させて補修したり、調和を微妙に崩したり、タイミングをワンテンポ遅らせたりすることで、鑑賞者の美的快感を喚起する手法は、さまざまな芸術表現に見られる。

具足はあくまで身を守るための実用品(工芸品の要素も多分にあるが)であり、その窪みも検査の過程でやむなく付けられた痕跡に過ぎない。しかし結果として、そこに「傷の美学」や「崩れの美観」に通じる趣が現れていることは面白いと思う。

ひょっとしたら、それぞれが一点ものである人間も、キズ物になって初めて本物に近づくのかもしれない。ただし傷の程度がひどすぎて、それで全体が壊れてしまっては元も子もないが。

 

鉄球

昨日の夜、たまたまあさま山荘事件の内幕を描くテレビ番組をみた。事件の概略そのものはさして目新しいものはなかったが、鉄球による破壊をおこなったクレーンの作業員たちが登場し、五十年の時を経て当時を振り返って語る姿が印象深かった。

彼らの顔は、当時の写真を見ても、現在の映像をみても、まぎれもなく、資本家でも政治権力者でもない「労働者階級」のそれであったから。

つまり、象徴的に書くと、労働者による革命を目指した若者たちの夢は、労働者が振るう鉄球によって、破壊されたのである。

あさま山荘事件と、その前段で行われたリンチ殺人がその後の日本の政治状況に及ぼした影響は大きく、深い。

天地の美

 ダーウィンの進化論は模式的でわかりやすい。ゆえに世に広く喧伝されるようになったが、個人的には今西錦司の棲み分け理論の方が思考に滋味ががあり魅力的に感じる。でも、「棲み分け」は、今はあまり評判がよろしくないらしい。

科学理論でも、流行り廃りがあり、その毀誉褒貶が真実や真理に近づく道程なのか、迷妄に陥る悪路なのか、それを辿っている間は誰も知ることができない。ただ、その道の路傍が、汚濁とトラップに満ちているのか、清澄な小川や可憐な草花に溢れているのかは、知ることができる。

要は、その説くところに「美しさ」があるかどうか、である。ここで大変重要になるのが、美的感受性というとても厄介な、きわめて正体不明な代物だ。

美的感受性とは、「正しさ」つまり、真なるもの、善なるものに繋がる唯一の道だ。これがないと、目前の「利」に負け、偽なるもの、悪なるものに垂直に転落する。

荘子に「天地大美ありて言わず、四時[四季]は明法ありて議せず、万物は成理あるも説かず、聖人は天地の美にもとづきて、万物の理に達す」という言葉がある。

荘子は、「理は美から導かれる」と述べているのであり、もっといえば、美的感受性のない人は物事の理(道理・真理)を知ることができない、と言っている。

湯川秀樹氏はこの言葉を好んだ。それは、理を極めるには美への鋭い感受性が必要なことを痛感していたからである。

 

ルーベンスの子供の絵

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ルーベンスが、自分の娘クララを描いた絵は、作者の対象への愛情が溢れている。絵を見る喜びとは、ひとつは、それを描いているときの作者の心情を追体験するところにあり、この絵は見る人を、作者と同じ幸福な気分に導いてくれる。

ルーベンスの元の絵は、おそらく実際のクララとはかなり違ったものだろう。形状や色彩を追うことで、現物以上のものを表現する、それが芸術家の本来の仕事だから、外形が似ていなくてもちっとも構わない。彼は娘を画布に写し取ろうとしたのではなく、画布の上に、自分の愛情を表現しようとしたのだろうから。

ルーベンスはむろんのこと、このクララも、この世にはいない。けれども、愛情の証は、数百年を経て、今に伝わる。「人生はみじかいが、芸術は永い」という言葉には、きっと、そんな意味も含まれている。