様変わりする国々の景色

 北朝鮮が「融和路線」に転換したのは、日米をはじめとする国際社会の経済制裁の効果もあるのだろうが、それは「引き金」的な役割を果たしたに過ぎない。北朝鮮が「核」カードの保持を目指した理由は、はじめからそれを「捨てる」あるいは「捨てるポーズをする」ことと引き換えに得る利益(体制保障や経済的利得)を狙っていたからだ。言葉を換えれば、経済制裁は、そのカードを切るタイミングを若干早めたに過ぎない。

経済制裁があろうがなかろうが、多額の費用がかかる核兵器の開発はこれ以上続けられない瀬戸際にきていたのだろう。北朝鮮は戦車や戦闘機などの通常兵器にかける余裕はないから、今後の北朝鮮軍はサイバー攻撃を主体にしていくことだろう。

北朝鮮にとって、「核」は戦争をするための兵器ではなく、外交を有利に運ぶための見せ玉だったが、これは「核カード」の切り方の由緒正しいお作法であって、アメリカやソ連・ロシアをはじめとする核保有国はずっとそれをしてきて、今も続けているのだから、北朝鮮は「先人」にならった振る舞いをしているに過ぎないと言える。

地球上に現存する核兵器は、地球上の生物全部を数回あるいは数十回滅亡させるに足る量が既にあるといわれている。現実問題として核戦争には勝者はいない。どっちに転んでも自分が勝者になれないことが明確な戦争の突入するほど、大国の首脳は愚かではない。この顕かな愚かさの自覚による自制が「核抑止力」の本質である。

北朝鮮の核保有は、良くも悪くも、この「核抑止力」の本来的な行使のみを目的としているという意味において純度が高い。かの国の核兵器は他国を攻撃するためのものではなく、他国の攻撃から身をも守るためのものだ。この目的は専一で、逆は無い。その抑止力を失うことは攻撃されるリスクにさらされることになる。だから、北朝鮮が「体制保証」という口約束あるいは「平和条約」という紙切れ一枚で、積年の念願でようやく手にした「核」をやすやすと手放すはずがない。

「捨てる」といいつつ捨てず、捨てるにしても、小刻みに、小出しに捨てて、そのたびに経済的・人的。技術的な見返りを要求する。核開発に莫大な元手をかけてきたのは、その投資効果があればこそで、北朝鮮は今こそ、その苦労して育てた果実を収穫する時期だと踏んでいる。

任期がない独裁政権である北朝鮮は、長期的視野に立って自国利益を確保し拡大するプランを練ることができる。それに比して民主主義国は、例えばアメリカはトランプはいつ弾劾にあってもおかしくないし、例えば日本は安倍晋三の三選も危うい状況であり、着任早々の韓国の大統領にしてもいずれ任期が来ることには変わりがない。

たいていの物事は、短期的利害で腰を浮かせて焦るより、長期的視野で腰を据えて取り組む方がうまく行くものだ。方向転換をするにしても、全てをご破算にしてつくりあげるよりも、それまでの蓄積を活かした形で行うのが効率的で合理的でもある。長期政権にはそのメリットがある。民主主義国の権力者は数年で総入れ替えになるが、金正恩は健康さえ続けばあと数十年は現在の地位にいる。個人の権力は短く、国の存在は永い。その意味で、交渉のキャスティングボードを握りやすいのは、経済的・軍事的弱者であるはずの北朝鮮の方である。

金正恩の怜悧な外交計算をする頭脳には、高射砲で部下をミンチにする残虐さや実の兄でも容赦なく追いつめて毒殺する冷酷さが潜んでいる。歴史上、独裁に残虐や冷酷はつきもので、世界史上の独裁者が行った犯罪的行為は金正恩とはスケールが違う。ヒトラースターリン毛沢東は数百万の単位で人命を奪っているのだから。(安倍晋三の「独裁」など、実力行使面では、せいぜい籠池夫妻を牢屋に閉じこめるぐらいだ)

北朝鮮は長期的に目指しているものは実は「朝鮮民主主義人民共和国」の未来永劫の存続ではなく、朝鮮半島の統一すなわち朝鮮人国家樹立である。「核放棄」の表明はそのための手段に過ぎず、さらに良い手段があれば、「核放棄をやめる」という「新しい判断」(@安倍晋三)を簡単にするだろう。

北朝鮮は自分たちを、高句麗以来の朝鮮族の正統政権だと思っている。朝鮮には幾多の国家が生まれては消えていったが、新羅は随唐の属国、李氏朝鮮も明清の属国、日本支配時代は論外で、韓国はアメリカの傀儡政権だと思っている。もっとも北朝鮮にしたところで、ソ連や中国の操り人形として「建国」したのだから、他国のことをいえた義理ではない。

韓国にとっても民族の統一は悲願でもあるし、北朝鮮統一国家になれば核兵器製造技術も手に入るのだから、かの国にとっては安全保障上の利点もある。一方、日本の「嫌韓」勢力にとっては朝鮮半島の統一は、「反日」的な核保有大国ができることだから、穏やかではない。だから安倍政権は朝鮮半島統一の動きに冷ややかなのだが、これは大きな時代の流れだと観た方がよいと思う。時代の流れとは、大ざっぱにいえば、欧米が世界文明を牽引してきた時代、あるいは大帝国が世界を支配する時代が終わったということだ。

世界を席巻してきた文明あるいは軍事勢力といえば、古くはアレキサンダー大王から、モンゴル帝国、スペイン・ポルトガル大英帝国、ナポレオンのフランス、そしてソ連アメリカと様々なものが明滅してきた。現代では、約30年前にソ連が崩壊し共産主義勢力が瓦解し、自国優先主義のトランプをアメリカ国民は大統領に選んだ。これは、超大国が属国を従えて世界を統べるという国際社会の構造が、崩れつつあることを示している。

現在の北朝鮮が、産みの親であり親分である中国やロシアの言うことをすっかり聞かなくなっていることが象徴的だし、日本にしても、アメリの言うことならなんでも思考停止して受け入れていれば良かった「奴隷の平和」に安んじていればよかった時代が、終わりつつあることでもある。

安倍晋三が自称する「保守」は、本来の意味での保守ではなく、単なる反左翼勢力ぐらいの軽い意味だが、彼ら「保守」勢力にはこのことが本質的にわかっていない。これは彼らが頭が悪いとか、頭が古いのとか指摘する以前に、完膚無きまでに叩きのめされた太平洋戦争での敗北という経験が大きい。日本は、あの酷烈な敗戦によって300万人の命だけではなく、精神の背骨まで折られて、国際社会の中で自分の足で立つことがもはや恐ろしくて、できなくなってしまったのである。この感覚は、何を隠そう、日本人である自分自身が深く了解している。

いつも誰かに寄りかかっていなくては不安でしかたがないさまは、かつて日本人の呼称だった「倭人(なよなよして頼りない人)」そのもので、そういう意味では日本人は「保守」勢力の望み通りしっかりと「原点回帰」したと言えよう。

弱い精神の特徴は、交渉事が苦手なところにある。交渉ができない人の対人関係は、「喧嘩」をするか「隷属」するか「睥睨」するかの三つに一つになる。一対一のあるいは一対多数の、対等の立場に立ってのコミュニケーションができない。これがマクロで言えば日本外交の伝統でもあるし、ミクロで言えば日本人の特質でもある。

安倍晋三の外交が日本国内で不評なのは、この日本人の弱さを露骨に見せつけているからである。日本人の安倍嫌悪は、有り体に言えば同類嫌悪である。

安倍晋三は日本人の弱さ、愚かさを、生身で具現化した存在である。彼は、韓国には「喧嘩」をふっかけ、アメリカには「隷属」し、開発途上国にはバラマキ援助という形で「睥睨」する。それらはどれ一つとっても独善的で弱弱しく、国家間の対等関係での大人のコミュニケーションとはほど遠いありさまである。

とはいえし、安倍晋三を外交の第一線から排除したからといって、日本の外交態度が改まる見込みはない。何せこの態度は、安倍晋三一個人にはとどまらない、日本人の全体の本質でもあるのだから。できることは、喧嘩と隷属と睥睨が日本外交の悪しきデフォルトであることを十分自覚しつつ、それに安易に陥らないように「心がける」ことだけだろう。

対等なコミュニケーション。これは北朝鮮との外交関係にも当てはめるなくてはならない。北朝鮮との間には、戦前の「日韓併合」という負の歴史と、戦後の「拉致問題」の解決という難問題が横たわっているが、この問題の難しさを重々踏まえつつも、かつ「対等なコミュニケーション」をとっていくことが重要である。

対等なコミュニケーションなくして、北朝鮮側は、自国の経済的利益である「補償」も得られないだろうし、日本側は、悲願である「拉致問題」も解決しえないだろう。ただ、これが安倍晋三にできるかといえば、自分は「できない」と思う。北朝鮮から「対話の機会」を示唆されながらも公式に何もコメントを返すことができない(5月3日現在)ような彼の狭量さは、こういう局面ではマイナスにしか働かない。

金正恩と対等に会話し、交渉し、相手の利益を踏まえつつ、自己の利益も十全に引き出す政治的芸当をこなすには、彼の精神はあまりに幼稚であり、彼の頭はあまりに旧弊である。そもそも彼の政治基盤をささえるコアの支持層は「弱腰」を許しはしないだろうから、臨機応変の柔軟姿勢を見せることが、彼の政治基盤自体を危うくすることでもある。

新しい酒を新しい皮袋にいれるべきだ、ということわざがあるが、新しい時代のあるべき政治スタンスは、新しい人の頭脳にしか宿らないだろう。しかし、現代の日本の危うさは、その「新しい人」がどこにも見あたらないところにある。(敬称略)