2018_05_02 江戸城本丸

 連休の谷間に、皇居でスケッチをする。

  
江戸城天守閣跡


 江戸城天守閣跡はずっと一度は見てみた思っていたが、どこにあるのかわからなかった。これが竹橋駅の直ぐ近くにあるとは知らなかったから、今日天守閣跡見られたのはたまたまだった。石垣のところどころが黒ずんでいるのは、天守閣が焼失したときの焦げの跡なのだろうか。

 それにしても、なぜ警戒厳重なはずの天下の江戸城天守閣で火事が起きたのだろうか。歴史教科書的には「明暦の大火で焼けた」ということだが、江戸市中での火事が、広いお濠を超えて、高い石垣を登って、天守閣にまで燃え移ることに、個人的にはどうもリアリティが感じられない。

 「大火事の火の粉や燃え上った木材や紙が強風に乗って飛んできた」という説明がつくのかもしれないが、どうも釈然としない。天守閣を焼失させた火災は、徳川幕府内部の誰かが、何らかの目的で行った「放火」だ、ということを考えた人はいないのだろうか。

 天守閣焼失のあと、建物は再建されなかった。正確にいえば、現存する天守台の石組みを再建したあと、さあ建物を載せようという段階で、当時将軍後見役だった、三代将軍家光の異母弟であり初代会津藩主・保科正之の指令で工事中止になったのである。

 これも歴史教科書的には「すでに江戸幕府の威光はゆるぎないものになっていたので、天守閣を再建する必要がなかった」ということらしいが、もし天守閣焼失が幕府内部の狂言だったとしたら、再建するはずがないのが道理である。

再建するつもりがないのに、なぜ天守台の石垣だけ整備したのかといえば、「内部放火説」を内外にカモフラージュするため、つまり再建のポーズをとるためだったと考えられないだろうか。

 現存する天守台は「これが江戸城天守閣なのか?」と訝しく思えるぐらい小さなもの(少なくとも自分にはそう見えた)だが、たんなるカモフラージュの道具ならば、そんなに本格的につくる必要はないだろうし、

 そもそも保科正之が石垣がすっかり出来上がったあとに工事中止を思いたのも、判断のタイミングとして遅きに失していて、不自然な感じがする。

あとは、徳川幕府が自ら天守閣を焼く動機、つまりヤラセ焼失をした理由だが、ここで説得力があるロジックとその裏づけが見つかれば、面白い歴史ミステリーが仕上がるような気が・・

・・と、独り素人が力んでいても詮無いのでこれ以上の空想はよしとするが、とにかく、江戸城天守閣は、焼失後再建されなかった。

 では将軍が物見をするときにどこに上ったかというと、江戸城本丸において、天守閣のほぼ反対側に位置する「富士見櫓」という建物だったと言われている。この建物の方は、往時のものが残っている。ちなみにこの櫓からは、富士山はもとより、両国の花火もよく見えたらしい。

富士見櫓