高尾山行 同行二人


 高尾山に登る。

 高尾山は標高数百メートルの小山のようなもの、という認識だったから、肉体的にはハイキング程度の負荷かとタカをくくっていたがが、意外にハードで登りは何回も立往生するはめになった。

高尾山には、真言宗薬王寺が頂上にあり、それに連なって八十八か所の札所がある。本家本元の「お遍路」の道程のハードさとはくらぶべくもないが、高尾山中を歩いて「お遍路」の気分をかすかに味わったような心地がする。

正式なお遍路が白装束で行われるのは、札所を巡る途中でいつ行き倒れ、こと切れても、そのまま埋葬できるからだ。

お遍路は、経済苦や、病苦などのさまざま人生の艱難に陥ったときに、自分の来し方を見つめなおせるという「効用」がある、とされる。現代では有名人の一種のパフォーマンスにも利用されることもあり、タクシーやバスをつかっても良しとするような、一種の観光コース化している感もある。

しかし、戦前までのお遍路は、かつて松本清張が「砂の器」で描いたような、日常とは不連続の陰惨な空気を纏っていた。

四国出身の故早坂暁氏によると、かつてのお遍路は、人生に敗れ身体や心が半分欠けたような人たちが参集する「死出の旅」であり、実際に、道半ばでこと切れる人も多かった。

その陰惨な旅路の救いは、遍路道の地元に代々住み、「お遍路さん」たちをサポートする一般庶民の存在だった。この無償の支援によって死を覚悟した「お遍路さん」がたちが生きる希望を取り戻し、絶望の淵から這い上がることもあった。

人間が、絶望するのは煎じ詰めるところ「孤独」だからだ。人間が生きるには、「他者」の存在がが酸素や水のように必要である。

遍路の道々で施される無償のサポート体験は、「自分は一人で生きているのではない」という確かな実感となりうる。

サポートする側の人たちすれば、「お遍路さん」たちは、自分たちの代わりに人間の原罪を背負い修行してくれている尊い人たちであり、その人たちを援けることは、いわば「ご神体」にお布施をするような意味合いになるのだという。

ひたすら山道を歩いていても、すぐに人生苦が軽くなるわけでもないし、たちまち悟りが開けるわけでもない。

歩を進めるごとに、今まで味わってきた、悲しかったこと、辛かったこと、憎いあいつの顔、もう取り返しがつかないことどもが、次々と思い出され、肉体の疲労と共に苦痛が増幅されるていくこともある。

そういう時のために、弘法大師は「同行二人(どうぎょうににん)」という言葉を遺した。

これは「どんな苦しい時でも、自分はお前と一緒に歩いてやる。いつもお前のそばにいる自分の存在を忘れるな」という意味だ。

弘法大師は、「苦しい時は自分が救済してあげる」といっているのではなく、「どんなときでも一緒に歩いてやる」といっている。

これほど慈愛に満ち、人を励ます言葉があろうか。

今日、自分はひとり高尾山中を歩きながら、何度もこの「同行二人」という言葉を念じた。それほど肉体的においつめられていたわけではないが、なんだか、思い浮かんで仕方がなかったのである。

頂上への道中に仏舎利塔がある。ここには、タイ王室からもらい受けた、本物のブッダの遺骨が納められているという。平成になってから建立したらしいが、インド風の立派な塔である。



仏舎利塔

ブッダの死後、彼の遺骨は、戦争が起きかけたほどの熾烈な奪い合いがあった。さすがに、魂の平安を説いたブッダの遺骨の取り合いで戦争がおきちゃあシャレにならないだろう、というに当事者たちが気づき、結果的には戦うにいたらず収拾したらしいが。

ブッダは古代のカウンセラーである。といって言い過ぎなら、精神分析者あるいは哲学者のような個性の人だから、本来、その説くところのみが尊重されるべきで、遺骨をありがたがられるような筋の人ではないのだが、遺骨の奪い合いが生じたときから、ブッダは宗教開祖の存在に変化していったのだろう。

ところで弘法大師には位牌も遺骨もない。なせなら高野山奥の院でまだ生きているからである。となれば、お遍路さんに同行なさっているのは、弘法大師の生霊ということになろうか。

誰が制定したのか、「世界の四賢人」というくくりがある。そのうち、キリストは磔刑になり、ソクラテスは毒杯を仰ぎ、孔子は世に認められない不遇のうちに死んだが、ひとりブッダだけは、その死を王侯貴族から下層階級までが悼み、像やシカや蛇まで泣いた、と言われる。

この伝説は一つの事実を伝えている。それはブッダは多くの人生哲学を口伝し、その言葉を多くの弟子たちが記憶したが、彼が死ぬことによって永遠に失われものがあった、という事実である。

死とともに永遠に失われたものとは何か。それはおそらくブッダの心の暖かさであったと思う。法理よりもなによりも、彼が弟子たちを惹きつけていたのは、その人間としての魅力だった。

ブッダの心の暖かさの正体は、おそらく人間を焼き尽くす欲望の炎であった。炎は、人を焼き殺すこともあるが、冬の寒い日に暖かいスープを作るエネルギーにもなる。彼の慈悲の心は、燃え盛る欲望の炎によってその温度を保たれていたのだろう。

ブッダは、自ら内にある欲望の炎をすっかり滅却したのではなく、その炎の「扱い方」に目覚めたのである。あまたある宗教学者や仏教の研究家の誰もそんなことは言っていないが、そう考えた方が、実態に合っていると自分は思っている。


ブッダの人生の四場面

仏舎利塔のそばにある、上掲したブッダの人生の四場面の石碑のうち、最後の「涅槃」がブッダの臨終のシーンである。この場面は、さまざまな描かれ方をしているが、個人的にもっとも心に迫る表現なのは、奈良・法隆寺五重塔の地下にある塑像群である。シカも象も出てこない分、これが実際のブッダ臨終の雰囲気に近いのではないか。


法隆寺 涅槃像土

弘法大師は、その主著「三教指帰」にて、儒教道教と仏教の比較検討をした結果、「仏教をもっとも尊ぶべし」という結論に至っているが、実際に弘法大師が日本に持ち込んだ仏教である「密教」は、洗練された人生哲学とでもいうべき本来のブッダの教えとはかなり毛色の違う、おどろおどろしい加持祈祷を旨とするインドの土着宗教に近いもので、その説く教義や世界観も、芸術的独創に溢れている分、ひどく難解で、ある意味、凡夫の理解を拒絶しているところがある。

真言宗とはいったいどんな教えなのか、を端的に説明できる人は恐らく地球上におるまい。いたとしても、手前勝手な解釈で大幅に「わかりやすく」端折っているだけだろう。

一方、言葉と論理によって生身の人間の救済を志向したブッダの言説は平明すぎるぐらい平明である。

ブッダは科学的観察の結果として「諸行無常」つまり万物は移り変わることを述べ、幸福になるための人間のあるべき生き方として「小欲知足」(苦を招く欲を滅せよ)を説いた。この二つが、原初ブッディズムの根本論理である。

さらに、ブッダは、人間の「欲」を十種類にカテゴライズし、その極小化あるいは消滅が、幸福への道程であると説いた。これが十善戒である。

ブッダの教えは、四つや、八つや、十六といったかたちで分割し箇条書きで説明されることが多い。これはブッダが発想者としてだけでなく、表現者としても非凡だったということを示している。

仏舎利塔の周りはぐるりと回れる小径があり、この十善戒のうち八つが門柱になっていた。

ちなみに、ブッダが説く、人間が幸福になるための十善戒は以下の通り。

不殺生(ふせっしょう)故意に生き物を殺さない。
不偸盗(ふちゅうとう)与えられていないものを自分のものとしない。
不邪淫(ふじゃいん)不倫など道徳に外れた関係を持たない。
不妄語(ふもうご)嘘をつかない。
不綺語(ふきご)中身の無い言葉を話さない。
不悪口(ふあっく)乱暴な言葉を使わない。
不両舌(ふりょうぜつ)辻褄の合わないことは言わない
不慳貪(ふけんどん)激しい欲をいだかない。
不瞋恚(ふしんに)激しい怒りをいだかない。
不邪見(ふじゃけん)誤った見解を持たない。

自分は、十個のうち四つにおいて、日常生活での「言葉の使い方」を訓戒していることは注目に値すると思う。

みだりに生き物を殺すなとか、人の物を盗むなとか、欲のままにふるまうな、いうのはいわば当たり前のことだから、実のところブッダの教説の主眼は、日常生活において「言葉を惜しむ(大切にする)」ことにあったのではないだろうか。

登頂後の下り道で、ところどころで足を止めて、森と林と大木の写真を撮りまくる。ここにイーゼルを据えて、大きなサイズの油絵を描いたらどんなに愉快だろうか。油絵、描けないけど。コローの風景画のモチーフは、多くは何の変哲もない植物と道のある光景だったが、彼がもしこの視界を描いたらひとつ残らず名作に仕立て上げただろう。


なお、北島三郎は八王子の親善大使だそうで、モノレール駅の前に、始末に困る風情の、金ぴかの像が立っていた。