弥生美術館 竹久夢二美術館

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弥生美術館

 

バロン吉元の個展を観る。

 

 絵の魅力は必ずしもモチーフを精確に描くことがから生じるわけではないが、魅了のある実物を精確に描くことは実物の魅力をそのまま写し取ることとほぼ同じなのだから、精確な絵から生じる魅力というものも少なからずある。

人物画の魅力とはなんだろうか。自分は「色気」だと思う。色気とは簡単にいえばごく普通の意味での「セックスアピール」であり、露骨にいえば対象が異性にせよ同性にせよ、肉欲を喚起するものである。バロン吉元の絵が持つ根本的な力は、この性欲の喚起性にある。

漫画家に限らず、希代の絵師と称すべき描き手には必ずこれがある。手塚治虫にもあるし、ちばてつやにもある。読者のキャラクターへの肉欲を喚起できれば絵師はプロとして食える。

この地力は、ボクサーで言えばパンチ力であり、剣道で言えば打突力であり、サッカーで言えばキック力に当たる。ただ、ここからがややこしいのだが、絵や映像などのビジュアル系アートにおけるセックスアピールとは、ただ異性や同性がもつれ合う有り様描写することによってのみ生じるのではない。

人間の能力の高さや低さ、容姿の美しさや醜さ、意思の強さや弱さ、筋骨の充実や身体的欠損、さらにいえば、高いモラルや低いモラル、社会的抑圧やそこからの解放によっても性欲は甚く喚起される。この機微を説明するの面倒だが、日常生活で誰しもが身に覚えがあるはずのものである。

ながらく文明社会をすみかとし、本能が壊れた我々人間たちの性欲のありようは、直線的ではなく曲線的で、単純ではなく複雑で、においや触覚以上に、視覚や頭脳イメージに依拠することが多い。そういう意味ではバロン吉元の物語は優れて文明的で、彼の絵は現代人の性欲の急所を深々と突き刺し、見る人に大きな叫び声をあげさせるパワーで充満している。

今回の展示会で、自分がもっとも色気を感じた絵は、片足が義足になった憲兵が痛みに耐えかねて酒をあおり身悶えするという、漫画原画の1シーンである。

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痛さに身もだえする義足の憲兵

軍人だろうと、憲兵だろうと、美男だろうと痛いものは痛い。身に走る激痛は思案の外だ。しかしその実存への「甘え」は、誇り高き「帝国軍人」であり、泣く子も黙る憲兵」であり、雄々しくあるべきの「男」である彼にとっては受け入れがたいものだし、社会からも受け入れることを認められていない。しかし、認められようがいまいが、一個の生身の人間として、痛いものは痛い・・こういった「公」と「私」の果てしない逡巡に、色気をたっぷり湛えた「女」が寄り添うのが、彼が作り上げる人間ドラマの道具立てだ。

そのあと展開される(であろう)目眩く官能の世界では、この激甚な「私的な痛み」が全編で鳴り続ける重要な基調低音になっていく。バロン吉元は通常の漫画家のようにネーム(全体のページ構成であり、ひと見開きごとのコマ割りとセリフを書き込んだもの)を切らず、原稿用紙に向かって直に描き出すので(さすがに絵の下描きはするのだろうが)、この構成はすべて作者自らの頭脳の中で即興的に塩梅される。

おそらく、作者の中には、人間は誰しも即興的に日々を生きているのだからキャラクターもそうでなくては本当らしくないし、そうすることによってのみ作品は力を持っていくという確信があるのだろう。しかし、いくらでもあとで書き直しができる小説などの文章と違って、ほぼ描き直しがきかない漫画でそれができるのは一握りの天賦ある描き手のみだろう。おそらく、すぐれた人ほど創造における即興性の重要さを知っているものだろう。

 

竹久夢二美術館

 

即興性といえば、弥生美術館に併設されている竹久夢二美術館で観た夢二の作品にも即興ゆえの集中力で鋭く構成された美しさが観られる。

少し前まで、世の中には名がよく知られた「売れっ子のイラストレーター」たちがいた。たとえば、「わたせせいぞう」や「ペーター佐藤」といった人たちだが、最近では絶えて聞かない(何らかの社会的な背景がありそうだが、それはさておき)が、そういう存在の巨大なはしりが夢二だったと思う。

展示会場で学芸員さんからうかがった話によると、夢二は当時日本画壇の泰斗だった藤島武二を尊敬していて、ペンネームである「夢二」は武二の音読みである「ムニ」に由来するそうだ。藤島の美人画は洋画家らしいリアリズムだが、リアリズムの中にも滲み出て立ちのぼる色香があって、夢二はそれに惹かれていたのだろうと思うが、夢二の中にも藤島のように芸術家として大きな成功をおさめたいという野心があったのかもしれない。

夢二の描く女性像は、いわゆる大正デモクラシーの追い風を受けて社会や風俗での存在感を弥増していった「自己を主張する強い女性」への反作用(アンチテーゼ)であり、そのステレオタイプな「柳腰」や「手弱女ぶり」を非難する声は当時もすくなからずあったらしいが、だから夢二の「男性的妄想」はすべての女性を敵に回したかというと、ぜんぜんそうではない。

彼は当時の女性の装いや図案の流行を先取りするファッションリーダーでもあった。現代では、男性が、女性の世界のファッションを先導するなど滅多にないことで、そういう存在がいたとしても大抵は「精神的には女性」の男性だが、夢二の場合は明らかにそうではない。彼にとって女性は性欲の対象であるとともに、崇拝の対象でもあり、彼の女性崇拝はその母親と実姉の存在に依拠している。

幼児期を濃密な母性あるいは女性性に取り巻かれた環境でそだち、その中で芸術的感性を育んだ例としては中勘助が挙げられる。中勘助の特異で豊潤な生い立ちは「銀の匙」という不朽の文学で結実するが、夢二の生い立ちが結実した場所はビジュアルアートであった。

夢二は、気まぐれな大衆から持ち上げられ、時代の波に乗り、消費され、商業的に利用され尽くされた果てに、五十歳で寂しい死に方をする。時代の寵児の常として、毀誉褒貶が激しく、あくまで「通俗画家」に終始し、尊敬した藤島武二のように芸術家として高い地位に登った訳ではないが、「生き甲斐」という言葉の小林秀雄の定義「歴史(時代)との摩擦感」を持ち出せば、夢二以上の生き甲斐に満ちた人生も、滅多にないのではないかと思われる。

なお、学芸員さんから、以上の他にも、とてもいいことを教わった。夢二の美人画の特徴の一つに手の表現があるが、彼は女性の手を描くときに、しばしば中指と薬指を密着させたという。

人間の五本の指のうち、親指は別にして残りの四本をどう描きわけるかはすごく難しい。もっとも良くないのは、一つ一つの指に美観構成上の役割を持たせずに、ただ数合わせのように漫然と描くことで、未熟な描き手ほど、その弊に陥りやすい。

そこを「人差し指」「中指・薬指」「小指」と三分割で指の区分けを解釈すれば、手を描くのはずいぶん楽になるし、仕上がりも格段に美しくなると思う。そういえば、ディズニーには四本指のキャラクターがしばしば登場するが、あれは中指と薬指を一体化したものなのだろう。いまさらながらだが、未知のものを観て、斯界の人の話を聴くと、いろいろ得られるものがある。