金魚

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出目金(デメ)



 一昨年の夏祭りに、娘が金魚と黒いデメキン持って帰ってきた。金魚は「ベニ」、デメキンは「デメ」とそれぞれ娘が名づけ、飼うことになった。

はじめは二匹を同じ水槽で飼っていたが、金魚がデメキンを追いかけ回していじめてばかりいるので、別々の水槽に容れることにしてほぼ一年経つ。

二匹とも、飼い始めた時に比べると、体長はゆうに三倍ぐらいになっているから、体積でいうと三の三乗で27倍である。金魚はまるで赤いフナのようだし、デメキンは子供のフグのようだ。

今日、水槽の掃除をするために一時的に二匹を同じ水槽に入れたら、デメキンの方が金魚を追いかけ回していた。かつての恨みを晴らしているのだろうか。人間の品種改良の結果無駄なヒレをたくさん身にまとい動きが鈍いデメキンより、俊敏性ではるかに優るはずの金魚が逃げ回ってばかりいる。

魚でも二匹を狭いスペースに入れると鞘当てをし始めるのだから、人間ならば推して知るべしである。人間の場合、二人を狭いスペースに長い間入れられてなお仲が良いなど、奇跡みたいなものであるから、たとえ仲が悪くてもそれがデフォルトと考えるべきだ。今は二匹とも、別々の水槽に収まって悠々と泳いでいる。

毎日見慣れた魚たちだが、絵のモチーフにするのは初めてである。動物や人間などが動いているところを絵にするには、ちょっとしたコツがいる。

まず、どのアングルから描くのかを決めて、記憶だけを頼りに大まかな形をとる。形がとれたら、おのおの細部は、動き回る相手からピンポイントで、一つずつすくいあげる。

三次元を二次元に移し替えることはできても、動画を静止画に移し替えることはできない。動いている相手を絵にする場合には、どうしても、一瞬のみを切り取りあとは捨てる必要がある。一つを選ぶことは他を捨てることであり、つづめて言えば、「選ぶ」とは「捨てる」ことなのである。

そして常に、選んだ量の僅少に比べ、捨てた量は膨大である。人間は何百年も生きることはできないし、何千人もの恋人をつくることはできない(できたとしてもそれは実質的には恋人とは呼べない別の何かだろう)。

僅かな時間の間、僅かな空間を動き回り、僅かな足跡を残して(あるいは残さずに)、どこかへ退場する。これまで、誰しもがそうしてきたし、これからも誰しもがそうするのだ。

自分において、こういう考えは、以前から観念としては頭の中にあったが、それがだんだん肚に落ちてきた。忘れることもあるが、すぐに思い出すようにもなった。ほかの人よりもそれに気がつくのが遅いような気もするが、自分はこれまでの人生を振り返っても、何事も人並みよりは十年から二十年ぐらい遅いから、それはそれでいいと思っている。