心の無い神

 人間の能力は心技体の掛け算で算出される。人工知能は不動心と体力で圧倒的なアドバンテージがありハナから対峙する人間は分が悪い。人工知能と人間のボードゲームは、今や機械に人間がいいように嬲られるSMショーの様相を呈しておりもはやその手の趣味の人しか正視に耐えないゲテモノになっている。

古来、武芸の修行者は「木鶏(木で作った鶏像)のような心」を持つことをその鍛錬の最終地点に定めていたが、人工知能は生まれながらにしてその「心」を持っている。それは人工知能の最大の強みであり、おそらく最大の弱みでもある。

人工知能には自己から発動するエモーションが無いので、勝つ喜びとも負ける口惜しさとも無縁だ。人間と人間の戦いは、勝つ喜びを求め負ける口惜しさを避けようとする葛藤とともにあり、そしてその葛藤は勝敗を分かつ切所においては、しばしば「雑念」としてマイナスに作用する。人工知能はその雑念から宿命的に逃れられているのである。強いはずだ。

人工知能と人間との「戦い」は、実態に則していうと人工知能の判断を支えている膨大な人間の行動履歴(ビッグデータ)とそれを開発した人間と、人間との戦いである。つまり「科学技術で武装した人間」と「丸腰の人間」の戦いなのである。人間対人間の戦いならば、武装した方が有利なのは当たり前だ。

約40年前、コンピュータの黎明期に、早くも小林秀雄は驚くべきことを言っている。「今どきの人はコンピューターと競争して足りないものを努力と言っている。今は努力というのは非常に消極的な意味しかない。そんなことを続けていても行きつく先は虚無しかない」と。

森の中で罠にかかり、囚われの身になった熊は、牙がボロボロになるまで鉄の檻をかじり続けるという。動物の歯はどうあがいても文字通り鉄には「歯が立たない」。全ての歯がコナゴナになっても熊はそのことに気づかない。今、躍起になって人工知能に挑みかかっている棋士たちはこの熊を嗤えるだろうか。

人工知能は「キカイ」というより「人間の化身」と観た方がいい。なぜなら、その中には、大量の人間の経験が詰め込まれているからだし、その開発の動機には科学者の野心が息づいているからだ。

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶという。その意味では人工知能人智の遠く及ばない「神」のごとき賢者だ。人間は人工知能と競ったり戦ったりしてはならない。「心のない神」など、とうてい人間がまともに向き合える相手ではない。