情報洪水で進む「無知」

 先日、新聞で以下のような一文を読んだ。「かつてのテロは大義をもって専制的な権力者の命を狙うものだった。だが現代のテロは社会に恐怖を与えるための無差別大量殺人で、テロの目的自体が堕落した」

まるでテロには「崇高なテロ」と「堕落したテロ」があるようにも読める。そういいたい気分はわかるような気がするが、この指摘は本質をついたものとはいえない。

テロとは、正面切って戦うには巨大すぎる相手に対して、追いつめられた劣勢者がすがりつくイチかバチかの「凶器攻撃」であり、外形の「崇高さ」や「堕落さ」など、テロを起こしている当人たちにとっては知ったことではなく、そんなものは安全地帯にいる外野のお気楽なセンチメンタリズムに過ぎない。

巨大な専制国家でもそのトップに立つのは刀で切りつければ簡単に死んでしまう生身の人間であり、強壮な軍事国家でもその中で暮らす人びとは穏やかな庶民である。テロリストが狙いをつけるのは、この人間や社会が絶対に克服できないウイークポイントであり、その本質においては、今も昔も変わりはないし、崇高と堕落の区別もない。

ちなみにアメリカは、つい十数年前に、国連や国際世論を無視して、大量破壊兵器隠しという大ウソをでっちあげ、劣化ウラン弾クラスター爆弾などの国際法違反の残酷極まりない兵器を使い、イラクを攻撃した。

アメリカ軍は、ファルージャを包囲した際に、一般人を含む数千人の大量虐殺を行っているが、これをもってして「アメリカが行ったのは、『ジェノサイド』であって『テロ』ではない。イスラム教徒もテロなどという姑息な手段ではなく、アメリカのように正々堂々と大量虐殺をするべきだ」などと考えている人がいたら、すぐに病院に行った方がいい。(行っても治らないだろうが)

言うまでもないことだが、テロよりジェノサイドの方が絶望的なまでに悪質である。「人類」はテロを糾弾しなければならないが、「アメリカ」という国には、本来的にそれをする資格がない。アメリカ人がテロを糾弾するときには、その忸怩たる思いを前提にするべきだと思う。

テロ事件が起きるたびに、決まって施政者は「テロを未然に防ぐために万全の守り固める」「テロを根絶やしにするための空爆や掃討作戦をしたり、資金源を断つ」というようなことを口にするが、こんな空辣な言葉はない。言っている本人も信じておらず、聞いている相手にも何の影響も及ぼさない言葉は、たんなる口から漏れる空気の振動にすぎない。

重要なのは、なぜテロリストやその背後にある組織が、高い生命のリスクを冒してまでもそれを実行するのかについて、頭と心を働かせて向き合うことだ。行為の背景を知り、思考実験としてでも、一度彼らの立場に自らの身を置いてみることだ。もし真に有効な「テロ対策」というものがあるならば、そこからしか絶対に生まれないと思う。

「敵を知り己を知る」という古典的な戦争の要諦があるが、これはただ単に敵の戦闘力の質や量を探知したり計測したりするという意味にとどまらない。この言葉は、敵の人生観や社会観、つまりは棲息しているコスモロジーに入り込んで、そこから事態を眺めなおすことの重要性を説いているのである。

この「他人の身になってみる」という能力あるいは姿勢が、われわれ現代人には甚だしく欠けているように思う。そして他者への想像力を喚起するには、それなりの知識も情報が要るが、われわれはそれを取捨選択することにおいても、血肉化することにおいても、甚だしく下手くそである。

かつてアメリカは、日本との戦争に突入する前に、緻密な敵国研究を行っている。その研究対象は日本の歴史や政治体制の特徴、日本人の価値観や死生観までに及ぶ極めて広く深いもので、その研究成果は対日戦争を遂行する上でも、その後の占領政策でも活用されたと言われている。

イラク戦争に突入する前に、時のアメリカ大統領はオスマン帝国の崩壊後の中東での欧米諸国のふるまい学んだり、イスラム教の世界観や価値観、中東の社会構造ぐらいおさらいしたはずだ(と思いたい)が、おそらくそのすべてはあのニワトリのような頭を素通りしたことだろう。

トップの頭を素通りする情報を配下が重視する筋合いもなく、当然の結果としてフセイン政権崩壊後のイラクは手のつけようがない大混乱に陥り、その災いの余波は鎮まるどころか増幅されて現在に至っている。

信じがたいことだが、時のアメリカ政府は、イラクの占領をかつての日本占領をモデルにして進めようと考えていた。「日本でもうまくいったのだから、イラクでもうまくいくに違いない」とばかりに。極端に言えば、イラク人と日本人の間には「人類皆兄弟」以上の共通点などまるで無いのにも関わらず、である。

そもそも70年前のアメリカ軍の日本への「進駐」は、先述したように緻密な日本研究の成果を踏まえてなされたものである。イラク占領にあたり、かつての日本占領を参考にしようというのなら、もっとも学ぶべきなのはこの姿勢であって、その他はすべて研究しなおして「イラク仕様」の占領政策を構築しなければならなかったはずだ。

こんな当たり前のことすら、今のアメリカ政府やアメリカ軍は怠ってきた、あるいは能力的にできなかった、ひょっとするとその必要性に気づきさえしなかったのである。

なお、そういった研究をするにあたり、何も「スパイ」や「インテリジェンス」や「事情通」の手を借りる必要はない。何千何万と刊行されている書籍や雑誌に当たったり、インターネットを検索するだけで、ほぼ事足りる。

ちなみに、情報の重要度は、その入手難度とは関係がない。艱難辛苦を経てやっと得た情報がゴミだったり、誰でもアクセスできる情報が実は極めて重要だったりすることはザラである。人は、重要な情報ほど隠され価値がない情報ばかりが公になっていると思いこみがちだが、実は重要な情報ほど広く流布され共有されているものなのである。

情報という「水」を鼻面に突きつけても、飲むかどうかは当人がその気になるかどうかであり、その気になるには「水に渇している」という条件が要る。現代において人間が教養を身につけるのがひどく難しくなっているのは、情報の「洪水」によって、「水に渇する」のが困難になっているからでもある。

先日ある著述家が講演会で、「現代の日本の研究者は、アマゾンやインターネットで欲しい本や文献をすぐに手に入れられる恵まれた知的環境にあるのに、かえって学問のアウトカムの質も量も甚だしく下落しているのはどういうことか」と嘆いていたが、おそらく事態は逆なのである。

「欲しい本や文献がすぐに手に入れられる」のはちっとも「恵まれた知的環境」ではない。「知に渇する」という人間が教養を身につけるのに必要不可欠な条件が阻害されるという意味では、これは却って「劣悪な環境」と観るべきなのである。