「死亡率100%を生きる」 木原武一 著

「死亡率100%を生きる」 木原武一 著

 著者の木原武一は、一般にはあまり名を知られていないかもしれないが、自分はその教養の扱い方やアイデアの発想力、文章の風韻が好きで、本屋や図書館でその著作を見つけるたびに、読むことにしている作家である。

 この作品は、自分の妻が、癌になって死んでいくまでの十年間の家族の生活を描写した手記である。

 かれの妻は、当初軽度の乳がんだったが、怪しげな民間療法を何年も続けているうちにどんどん悪化させ、がんはどんどん全身に転移し、余命数ヶ月と宣言されるにいたって、浜松市ホスピス終末医療を施す施設)に入所する。

 しかし、そこではじめて近代的な医療を施術され療養するうちに「奇跡的に」死出の旅からユーターンし、自宅に帰ることができるようになるが、四年たち最後に全身がんまみれになって亡くなる。その発病以来死までの、10年間の夫婦の来し方を綴った手記である。

 所々にちりばめられた古典文学の警句や、描写の正確さ、文章の洗練さはさずがだが、どうしても最後まで違和感をひきづってしまった原因は、乳がんに対する、かれら夫婦の初動対応の拙さである。

 乳がんが胸に広く深く浸潤し、皮膚や肉がどろどろに膿んで溶け出して、血がだらだら流れて異臭を放ってもかたくなに病院に行くことを拒み、果てしなく胡散臭い、怪しげな治療マシンが発する「光線」の照射に事態改善の一切を託している様は、悲惨を通り越して滑稽ですらある。

 この極度に迷信的な振る舞いを見て、これが、あの知的な文章を操る木原氏なのだろうか、と信じられない思いだった。

 その後のホスピスでのキリスト教の洗礼や、妻が残した遺書の文面は、確かに感動的だが、初動の滑稽さ(もっというマヌケさ)があるために、後々まで、どうしても全身で文章と一体になって感動できない、妙なすき間がある。

 つまり、初期段階で無策、あるいは不合理な不作為によって、無用に事態がこじれたならば、そのこじれた事態から奇跡的に生還できたからといって感動は生じないということなのだ。

 つまり、乳がんの初期段階で適切な治療を受けていれば今も彼の妻は死んでいないし、こんな大層な闘病手記などそもそも書かなくて済んだのに、という思いが、薄情な自分をシラケさせるのである。

 それは、初動でもたつくヘタクソな野球選手ほどダイビングキャッチという「偽りのファインプレー」を演じやすい事情にも似ているように思う。

 また、乳がんを怪しげな民間療法でこじれさせ、のちにキリスト教系のホスピスで心身(心は洗礼を受けることによって、体はホスピスの博愛的・献身的看護によって)ともに救済される成り行きにも、妙な符合がある。

 現代においても、イワシの頭を信じる人はほとんどいないが、十字架の威力を信じる人は数十億人いる。

 あるフィクションがあって、信じている人々の勢力が小さいうちは「迷信」と呼ばれ、大きくなれば「信仰」と呼ばれるが、その本質がフィクションである事情にも変わりは無く、極端に言えば、キリスト教にしたところで「巨大な迷信」であることには変わりは無いと考えれば、

 彼の妻は、迷信(民間療法)によって窮地に陥り、そこから迷信(キリスト教)によって救われたということになり、そういう因果な構造を持つドラマを著者は図らずも描いたのだ、いう意地の悪い見方も、ひょっとしたらできるかもしれない。