「コンビニ人間」を読む。

 芥川賞受賞作「コンビニ人間」を読む。

 コンビニ店員である主人公の女性は、小学生の時に、拾った鳥の死骸をヤキトリにして食べようと言ったり、ケンカの仲裁をするために男の子の後頭部をスコップで殴りつけたり、ヒステリーを起こした担任の女教師のスカートとパンツを一緒に脱がしたようなエピソードを持つ人間で、

そのエキセントリックな性質と奇矯なふるまいゆえに、長じてからも社会とまともに渡り合えず、現代人の通過儀礼たる「就職」「恋愛」「結婚」のいずれも経験しないまま、18歳の時に始めたコンビニのバイトと一人暮らしを18年間続けて、36歳に至っている。

 主人公は、世の中の「通過儀礼」通過者たちからの同調圧力に抗しきれず、バイトで知り合った35歳の似たような社会不適合者の男性を自宅アパートに連れ込んで、仮面同棲生活を始める。

仮面同棲だから、男女の関係にもならず、男性はバスルームを居室として、主人公からろくに味つけもされていない食事を洗面器に入れて渡されて食べている。この異常な関係は長く続かず、主人公は、働いていたコンビニエンスストアを辞めたあと就職活動を始め、その面接に向かう道すがら発狂状態にも似た「コンビニ愛」に恍惚としたところで作品は終わる。

 この作品において解せないところが二つある。一つは、主人公は世間の常識の埒外に生きている人間のはずなのに、なぜ「いい歳をした人間は仕事をするか家庭を持つべき」というきわめて陳腐な社会の同調圧力をスルーできなかったのか。

もう一つは、主人公が18年間働き続けたコンビニエンスストアを突然辞めた理由である。

 一つ目は、これをスルーしてしまうと物語として成立しないから仕方がないにせよ、二つ目の、主人公が尋常ではない愛着を持っていたはずの仕事を辞める理由や葛藤がまるで描かれていないのは、なんとも奇異である。

「主人公は奇人・変人だから、その行動もなんの脈絡がなく唐突なのだ」ということならば、こんな乱暴な話はない。勝手に事情を忖度すると、おそらく「エンディングの狂気につなげるために、とにかく主人公をいったんコンビニから切り離す必要があったから」で、つまり理由などどうでもよく、ようするにご都合主義なのである。

小説は人間が空想の中でつくるお話なのだから、ある程度ご都合主義になるのは宿命のようなものだが、看過するには、これは大きすぎる穴のように思う。その他にも、主人公が「奇人」にふさわしからぬやけに分別臭い意見や常識論をぶつ場面がいくつかあり、そのたびに興が醒める心地がした。

選考委員の一人が「自分は普通ではない、どこか変なのだと自覚している人間を語り手にして小説を書くのは難しい」と書いていたが、これはプロの作家の実感として実際そうなんだろう。けれど「難しい」から粗相があっていいということにはならない。どんな難曲であってもタッチミズがあれば容赦なく糾弾されるのがプロの演奏家であり、これは単なるタッチミスではない全体を覆うトーンの中での違和感なのである。

自分は、この作品は、ユーモア小説としては不十分、狂人日記としては不徹底、「お仕事小説」としては底が浅く、「負け犬文芸」としては陳腐で、都市奇譚としての魅力もない、中途半端な小説であると感じた。逆に、それだけ様々なジャンルを包含している「総合小説」であるといえるのかもしれないが。

ある選考委員が、「コンビニ人間」とは別の作品を強く推し、かなわなかった恨み節に、こんなことを述べている。「欠点を見つけようとすれば、おそらくいくらでも見えてくるだろうが、そうしたくない、そんなふうにしてこの切実で圧倒的な魂の叫びを潰してはならない。そう思わせる作品だったということだ。胸を打つ、という一点ですべての欠点に目をつむらせる作品こそ、真に優れた作品ではないのか」

「胸を打つ、という一点ですべての欠点に目をつむらせる作品こそ、真に優れた作品ではないのか」という問いかけは至当だ。そして「胸を打つ」は別の言葉にさし代わっても一向にかまわない。とにかく文芸、とりわけ小説、さらにいえば「純文学」には、人間のエモーションを突き動かす一点突破の「圧倒的なもの」が必要なのだが、「コンビニ人間」にはそれ見あたらず、だから細部の疎漏に「目をつむる」ことができないのである。