昭和記念公園 徒然草 鈍き刀

 とてもいい陽気だったので、久しぶりに外で絵でも描こうと思い、昭和記念公園に出かける。一枚あたり、三十分から一時間ほどかけて、場所を変えて四枚描き、疲れたので、芝生に寝ころんで本を読もうと思ったら、いくらも読まないうちに、眠ってしまった。

目が覚めたときは、すっかり陽が傾いていた。どうやら寒さに起こされたらしい。読んでいたのは、「教養としての社会保障」という元厚生官僚が書いた本で、内容は面白いのだが、自分は、面白い本ほど読んでいて眠くなる癖がある。

つまらない本は、いったいいつ面白くなるのか、これまで費やした時間をどうしてくれる、と半ば腹を立てながらヤキモキするから、眠くなるどころではないのだ。



木立越しに望む「みんなの原っぱ」

 話は変わるが、徒然草に「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、という。妙観が刀は、いたく立たず」という短い段がある。よけいな現代語訳をつけると、「よい細工師は、少し鈍い刀をつかう。妙観(という名人)は、切れない刀をつかった」である。

腕の立つ細工師が、少し切れ味の悪い刀をつかう理由は、細部への必要以上の拘泥を避けるためである。腕の立つ細工師は、細密な手作業を難なくこなすから、切れる刀を使うと、細部への没入に歯止めが利かなくなる。細部に必要以上に執着すると、全体のバランスへの目配りがおろそかになるだけでなく、作品の外貌が複雑化した分、品が落ちる。

なぜ、外貌が複雑になると、作品の品が下がるのかというと、製作者の作品への耽溺や、腕前を誇る虚栄心が、どんどん露骨になっていくからである。

自分は、もちろん「よき細工」ではないが、このあたりの機微は、なんとなくわかる。自分の場合、絵を描くときには、尖った鉛筆や、細い筆など、細密な描写や、克明な表現に適した道具は、特に必要と思われない限り、使わない。やはり、細部への拘泥に、歯止めが利かなくなることをおそれるからである。

これは、「神は細部に宿る」という、周知の芸術観と矛盾するようだが、そう見えるのは外側だけで、本質ではそうではない。「鈍き刀」で制作された作品は、細部を喪失してるのではなく、細部を包含しているのである。

名人が鈍刀で彫った作品は、一見して粗削りに見えることもあろうが、その中には、細部が濃密にひしめき合っている。ちょうど、人間ののっぺりした皮膚の下に、複雑に絡み合った、血管や、内蔵や、骨がひしめき合っているように。逆に言うと、その「ひしめき合っている感じ」が出てこない作品は、鈍刀で彫られようが、鋭刀で彫られようが、単なる粗雑な作品にすぎないのである。

小林秀雄は、「徒然草」という短いエッセイで、この兼好の段を引いて、「彼(兼好)は利き過ぎる腕と鈍い刀の必要性とを痛感している自分のことを言っているのである」と説く。では、画家や細工師ならいざ知らず、作家や随筆家にとって、「鈍い刀」は、いったい何に当たるのだろうか。

その答えらしきものは、このエッセイの終わりの方で、小林が「鈍刀を使って彫られた名作のほんの一例」と述べて紹介している、第四十段にある。

因幡の国に、何の入道とかや云ふ者の娘、容(かたち)美しと聞きて、人、数多(あまた)言ひわたりけれども、この娘、唯(ただ)栗のみ食ひて、更に米の類を食わざりければ、斯かる異様の者、人に見ゆべきにあらずとて、親、許さざりけり」

「見た目は美しい娘だったが、クリばかり食べている変人なので、親は嫁に出さなかった」という内容で、これのどこが「名作」か、理解に苦しむのが普通であろう。ただ、回りくどい書き方を許してもらえれば、この文章の場合、名作に見えないところが、まさに名作であるゆえんなのである。

兼好は、この話を、上記のように百文字たらずで纏めているが、おそらく、元来は、もっと細部が込み入った長大な話で、徒然草以前に、これを聞いたり読んだりした人びとは、結局この話は何を言っているのかよくわからないまま、わかったような気になって、済ませていたのではなかろうか。

その「なんだかよくわからない言葉の塊」を、兼好は「鈍刀」で、ザクリ、ザクリと切り込んで、アウトラインを明確にした。但し、これはいわゆる「要約」ではない。要約にありがちは、痩せたような、干からびたような感じは無い。これは新たな「創造」だと見るべきだ。そして、この創造を可能にしたのが、兼好の「鈍刀」なのである。

元来、情報というものは、複雑なものは複雑なままで、単純なものは単純なままで提示するのが良い。複雑なものを単純に見せるには「隠蔽」がつきものであるし、単純なものを複雑に見せるには「捏造」がつきものであるから。

しかし、それは説き手によって、前者は「簡素美」を構成し、後者は「装飾美」を展開し得るもので、簡素美を構成するには「少し鈍き刀」が、どうやら必要なのだ。そして、実際の「少し鈍き刀」がそうであるように、少し刃先の角度や力の入れ具合を調節するだけで、たちまち鋭利な切れ味を発揮し、鮮烈な切り口を見せることも、また可能なのである。