練馬区立美術館「生誕150年記念 藤島武二展」2017年8月26日

練馬区立美術館に「藤島武二展」を見に行く。薩摩藩島津家の重臣の家柄で、兄二人は夭折し、彼は家督を次ぐ立場にあったらしいが、画家を志し十七歳で単身東京に出てから、生涯鹿児島には帰らなかったという。緑の大きな熊が看板を支えている。


現実を忠実に写し取る絵は高精細の画像のような「量」の世界なので絵の門外漢でも容易に感心できるが、細部を省略し本質だけを抽出した絵画は「質」の世界なので、見て愉しむにはそれなりの眼力が要る。ただ本質は緻密な細部に宿ることもあり、そこは省略してはならないところが、ややこしい。


デザインとデッサンは語源が同じらしいが、この両者がどう関係しているのかが自分にはよくわからない。デッサンが達者なだけでデザインの巧者になれるとは思えないし、デザインの達者になるには必ずしもデッサンの腕前は必要ないだろう。ともに目の鋭敏さは必要だが、この二つは美術ジャンルの中では別の才能だと区分していいと思う。


若いころの作品。今回の展示会で自分が気に入った絵の一つ。(実物は油彩画)。作者が有形無形のいろいろなものを見抜いていることを感じさせるし、時代の空気感も漂っている。モデルの若い女性はすでにこの世にはいないことが不思議に思える。


藤島武二の渡欧は38歳で留学年齢としては遅いが、すでに中央画壇での地歩を固めていた彼にとって留学は「箔づけ」の意味が大きかっただろう。雪舟水墨画の本場である中国(明)に留学して、名品に接する以外何も教わらないで帰ってきたらしいが、藤島も似たようなものだったのではないか。


昭和天皇即位の際に、宮内庁の学問所に飾る作品を依頼された藤島武二は、テーマを自主的に「日の出」と決め、その連作を残している。日の出は描写できる時間がごく短く限られているため、いずれも早描きになっているが、雑念が入るゆとりがない分、すべてが本質を深く鋭く捉えた作品になっている。

敷地内の公園には、いろいろな動物の巨像があった。遠くからこれを目当てに訪れる人がいるのかどうか知らないが、地域の住民にとっては大切な憩いの場になっていることだろう。

公園を見て回ると、とても熱がこもった企画だったことがわかる。一生のうちに一つでもこういう社会に沁みとおるような仕事ができれば、以て瞑すべしではなかろうか。大げさな言い方かもしれないが、この公園の成立に関わったひとは皆、人生の最後にはここを訪れたくなるに違いない。黒澤明の「生きる」という映画のように。


練馬区立美術館までは荻窪駅からバスを使った。途中、はからずもかつて自分が3年間ほど住んでいた地域を通過した。駅前の商店街では住民が夏祭りの準備をしていたが、地域と交わることはまるで無かった自分は、ここで夏祭りが開催されていることを今日初めて知った。

バスに揺られながら、かつて自分が住んでいたアパートへの、駅からの道すじを思い出そうとしたが、結局は思い出せなかった。