金魚


 キンギョが2匹家に来た。眺めているといろいろなことが思い浮ぶ。

ものごとには、「目的」と「手段」と「条件」がある。通常、目的がないと手段も条件も決まらないと考えがちだが、実は順序が違うことが多く、手段を持ちそれを発揮できる条件が整ってからやおら目的を見つけるという例も多い。

アメリカのイラク侵略などがその段で、血ぶくれした軍事力という「手段」を持ち、それを存分に振り回せる国内外の「条件」が整っていたので、ではどこに「正義の鉄槌」を下そうかと物色してやおら見つけたターゲットつまり「目的」が、「圧政に苦しむ無辜の国民」がいて「政権が大量破壊兵器を隠し持っている」イラクであった。

上記はあまり芳しくない例だが、持って生まれた才能や能力という手段と、それを発揮できる条件が整っていて、次にそれを活用して達成する「目的」を後づけで見つけることは、ごくふつうの人生の様相でもある。いまを時めく武井咲は、美人だったから女優になったのであり、女優になるために美人になったのではない。

常世間では目的だと認識されていることが本当は手段や条件だった、ということもある。

経営学者のドラッカーは、企業活動の目的を「顧客の創出」と定義している。彼は、その目的を達成するための手段が「事業内容」であり、条件が「利益や売上げ」と位置づけている。

このドラッカーの言葉は、その名言的風韻もありビジネスの世界では広く知られているが、じつは凡百の会社員には素直に腑に落ちない言葉なのである。ふつうの感覚だと、企業活動の目的は「利益や売上げ」で、それを実現するための手段が「事業内容」であり、「顧客の創造」は、そのための条件にすぎないと考えるからだ。

もちろん、公には企業は自らの法人としての活動の目的、つまり使命を「社会貢献」だの「顧客第一」だのと謳ってはいる。しかし本音の部分では、自社の利益や売上げが最優先なのが裸の声である。

ではドラッカーは美しい建前、あるいは学者然と机上の空論を吐いたのだろうか。自分はそうは思わない。これはおそらくより高次の、きわめて生々しい、人性に密着したリアリズムに根づいた言葉である。

慥かに「売上げや利益」をあげることは企業活動の柱である。人間の体に準えれば背骨に当たるだろう。ただ、背骨は人間が直立歩行する為の「条件」であって、背骨を頑丈にすること自体を人生の目的にすることはできない。

さらに話が飛躍するようだが、この論点を進めていくと、そもそも人間は何のために生きているのか、という人生の最重要課題にいきづかざるを得ないのである。

「人生に目的などない。人間は水槽の中のキンギョのように、あてどもなく泳ぎ周り、時には群れ、日の出とともに起き、日の入りともに眠り、あてがわれた餌を徒食して、いつの間にか水面に見せて浮かんでいるだけの存在だ」という人生観もありえるし、あるいは思考スタイルとして、あるいは社会的ポーズとして、そういう姿勢を採りたがる多くの人がいることを自分は知っている。

人生の最期にそういう考え方で死んでいくことは否定しない。しかしそういう考え方で生きるには、人生は長すぎる。人生の目的なぞ熱く語ったところで退屈だからもう止めにするが、いま自分が持っている人生の目的に関するビジョンは、ドラッカーが説く企業活動の目的と、その本質において重なり合う。半世紀生きてきた人間として自分には自分なりのリアリズムがあり、その手応えがドラッカーの哲学と共鳴しているのを感じる。