目標と目的の話


量と質の話

 物ごとを評価するには、質を判定するか、量を計量するかの二つの方向がある。

この二つはお互いに深い関係にもある。例えば、質は量に変換することもできる。「顔の美しさ」という質の判定は、観客の「投票の数」という量的な指標でひとまず顕すことができる。

逆に、量を質で解釈することができる。陸上競技などで、他と隔絶した数値をマークする人は、通常の競技者と異質の境地にいる。量の隔絶には、質の断絶が潜んでいる。

数値の比較とは、AはBより何ポイント高いとか、CはDの何倍だとかといった相対的なものだが、実は、隔絶して優れた数値をマークする競技人は、他とは異質の競技観を持ち、かれの肉体と精神は、他とは別次元の世界に遊んでいるものだ。

相対的な量のギャップには、絶対的な質の違いが潜んでいる場合が多い。

両者に大きな質のちがいがありながら数値はたいして違いがなかったり、質のちがいがほとんど無くても、数値において大きな差がついたりすることがあるが、こういった場合、質と量とで信用すべきなのはどちらだろうか。

難しいテーマだが、慧眼(高度な批評眼)を要する質の判定と、小学校の算数の知識さえあればこと足りる量の比較では、より高度な能力を要するという意味においても「質」の判定に重きをおくべきではないだろうか。

俗に「数字は嘘をつかない」というが、この言葉がすでに半分嘘である。(さすがに全部嘘だとは言わない)数字ほど嘘をつきやすく、あるいは真実や事実を糊塗しやすいものはない。

世に「数字に強い」ことを自他ともに認めている人々がいるが、こういう人は「嘘をうまくつく人」とニアリー・イコールである場合が多い。「数字に強い人」は、自分が嘘をついていること、真実や事実を糊塗している自覚がないことが多く、それを自覚させるのは厄介である。

滔々と数字を並べて飽きることがない彼らは、実は数字を操ること自体に快楽を感じているのではない。彼らが感じている快楽の源泉は「数字を使える自分」に対し他が与えてくれる認証や賞賛である。

逆に、自分が直面している事象をうまく描写できない人、自他をとりまく状況をスムーズに説明したり批評したりするのが苦手な人がいる。語彙量や表現力の不足は論外だが、事物の生態のあまりの微妙さや、成り立ちの精妙さに愕然として、これを「言葉」や「数字」といった人間界の記号に変換することに深い違和感を感じているのであれば、その立場は正当である。

こういう人が他者から認証されたり、賞賛されることはたやすくないが、この性向を保持しているがゆえに得られる人生の果実というものも確実に存在するのである。


目標と目的の話

 仮に「目標」を量的に達成すべき一次元のライン、「目的」を質的に足を踏み入れるべき二次元のエリアだと定義すれば、人生において本当に意味があるのは、目標の達成よりも目的への到達ではないだろうか。

「目標」は必ず遠く離れた場所にあるが、「目的」は多くの場合、手を伸ばせば届く範囲にある。目標へはそれに向かって一途に歩み続ける脚力が必要で、目的はすでに身の周りにあるものを見い出す視力がいる。

こう書くと、目標の達成よりも、目的への到達の方が一見易しいようだが、関わり合う他者や僥倖や偶然の援けの領分が大きいだけ、目的への到達の方が、実現が難しいともいえる。