「刀」的なものについて

 昔の不良は鉄パイプやチェーンや木刀を携えて戦いに臨んだものだが、不思議と死者や重傷者は出ていなかったように思う。その理由は、彼らの中では、これらの「武器」は威嚇あるいは覚悟表明のアイテムであって、実際に生身の人間を痛めつけるためのものではないことが暗黙の了解だったからだと思う。

今の若者は、鉄パイプやチェーンは振り回さないが、「カッターナイフ」や生きているのが嫌になるぐらいの酷い言葉や扱いで、他人を実際に「殺して」しまう。

以前読んだ三島由紀夫のエッセイに「帯刀を復活させるべし」というものがあった。腰に刀をぶら下げて始終ガチャつかせているぐらいの不穏な、緊迫状態の方が人間は穏やかに、礼儀正しくなるのだ、という主旨だった。

実際に江戸時代の武士は、他人から言われなき侮辱を受けたら絶対にその恥を雪がねばならず、それができない人間は以後武士としての面目を失い、存在を否定されたから、お互いそんな事態に陥らないように気遣いあって、対人関係において幾重にも丁重な礼儀のバリアーを張り巡らせて処世していた。

江戸時代に日本を訪れた外国人は、日本の武家社会において、上司が部下に非常に丁重な物言いをすることを驚いているが、上司は部下と言えども武士だから、下手に恥辱を与える、つまり、現代でいうパワハラやマウンティングをすると、目前で抜刀されてバッサリやられる緊迫感を常に秘めていたからこその丁重さだったのである。

今どき、ことさらに武士を美化してもしかたないが、人間が「丸腰」になることは、刃物とともに携えていた「礼儀」や「作法」も一緒に脱ぎ捨てることだったのである。礼儀や作法のない社会ほど棲みづらく、恐ろしいものはない。その危険性は、よく研がれた刃物以上ではなかろうか。

絶対に実現しないアイデアだが、小学校や中学校で、一人一本ずつかならず護身用のナイフ(十分に殺傷能力のあるもの)を学校に持ってこさせれば、人を侮辱すること、人にいわれなき苦痛を与えることのリスクへの感性が研ぎすまされ、人間関係の緊迫感のボルテージは上がり、いじめも激減するであろう。

刀やナイフは無理にしても、「刀的なもの」や「ナイフ的なもの」を、生徒たち、社員たち全員が携えて集団に参加するようになれば、てきめんに、イジメもモラハラパワハラもセクハラもマウンティングも、その集団や人間関係の中から消滅するだろう。

現代の社会常識が受け容れることができる「刀的なもの」、つまり「他人を侮辱することのリスク」を突きつけるものとは何だろう。もしかすると、それを「苦にしての自殺」がそうなのかもしれないが、復讐にしては代償が大きすぎるし、そもそも自分が死んでは元も子もない。