日本の「失敗」とは何か

 かつての大日本帝国陸海軍の行状を「失敗」であると捉え、それに「学ぶ」ことが流行っているが、そもそも日本軍は本当に「失敗」したのだろうか。「失敗」というからには、誰かがどこかを何かうまくやれれば「成功」したということになるが、あの歴史的悲劇の本質は、そんな生易しいものだったのだろうか。

また、太平洋戦争の敗因は日本の軍隊組織が戦闘集団としての合理性に欠けていたと説く向きもあるが、それはいうなれば日本人の集団が当時抱えていた(ひょっとして現在も抱えている)文化人類学的な課題であって、「失敗」とは毛色の違う話だと思う。

国民や民族が共有している「文化」には、失敗も成功もない。強いてありそうなのは「未開の文化」と「高度な文化」だが、未開と高度を誰がどういう尺度で判別するのか、それもなかなか難しいテーマである。

歴史的事実や事件、あるいは一時代というものは、仔細に分析すればするほど、その個別性や特殊性が露わになるばかりで、そこから何か新しい教訓めいたものをすくいとろうとしても、すでに言い古された格言以外なにも出てこないのが相場である。

覆水盆に返らず。この、起きてしまったことは二度と繰り返されないという「取り返しがつかない」感がおそらく歴史の本質である。では歴史を学ぶことはまるっきり無駄か、というとやはりそうでもない。

人間には過去に直面したシーンと似たようなシーンに遭遇すると、同じような生体反応をする性質がある。あるプロゴルファーは第1ラウンドの1番ホールのティーグラウンドで同じように緊張し、 あるサラリーマンは満員電車に乗っていると毎日同じように便意がこみ上げている、地方から東京に進学した学生は帰省する新幹線で座席に座ったとたんにそのたびに心底安堵する。

歴史を学ぶとは、当時の人々の事件や事故や時代にまつわる感情を追体験することであるが、これは実際途方もない難しさを秘めている。いわば、明治時代の学生が夜汽車で体験した感情を、現代の学生が新幹線で追体験するようなものだからだ。しかしこれでもやらないよりはやったほうがマシだろう。

もっとも意味がないのは、過去のある時代や個人や集団の行状に「失敗」というレッテルを初めから貼りつけて、そのあら探しを鵜の目鷹の目で行うことである。いうまでもないが、これでは「追体験」にならない。

追体験」には、暖かい、時には怜悧な目で観察し、その結果得た種子を想像力で膨らませる力量が要る。これができるのはごく少数の人たちだけで、こういう人たちだけが、他人が経験した過去の事象と自分が体験している事象の類似性や差異を直覚することができる。これは頭脳による論理的マッチングというより、上述したように一種の理性を超えた生体反応である。

いっそ、戦前の日本の歴史を一切肯定してみてはどうだろうか。それでもどうしても飲み下せない、肯定しきれない部分が、本当に否定すべき部分として残るだろう。