獅子文六 私小説「娘と私」 ※抜き書き

●その頃、私は、何かにつけて、父親の能力の限界を、知ることが、多くなった。いくら焦っても、できないことが、たくさんある。こんなにも、子を育てる父の力が、狭いものであるかと、驚くことが屡々だった。父が働き、母親が家と子を守る、世間一般の家庭が、どれだけ、わたしに羨ましかったか、知れなかった。

●父親は、事業を愛するとともに、子供を愛したいのである。事業と妻子と、どっちが大切かということは、男にとって、問題にならない。それは、別の場所から出る愛であるが、ただ、同様に、深いのである。

●何よりも、世間から注目される小説を、書く必要があった。昔のように、自分だけを相手として、独り合点の小説を書くわけにはいかなかった。今度は、読者が、体温を感じるほど、近く、私の前に、立っていた。その読者に、反応を起こさせるには、今までも、人の書いていたようなものを、書いたのでは、駄目だった。

●子供が、孤独を味わったら、とんでもないことになる。不良児の前歴には、必ず、そういうことがある。また、それが、杞憂としても、一瞬でも、そんな気持ちを味わわせることは、親として忍びない。

●私自身も、自分が、国家や社会のことに、関心があるとは、この日(226事件)まで、知らなかった。そして、この日以来、私は、新聞の一面を注意深く、読むようになった。

●亡き妻(獅子文六の最初の妻・エレーヌ)は、父親が、子種残し休暇といわれる、数日間の帰宅の時の印象を、よく、私に語った。日本人には想像がつかないほど、戦争に対する人間苦が、父親の態度を語る、彼女の口から、聞かれた。彼は、ただ黙り、暖炉の火の前に、黙って数日間を送り、また、黙って、戦線に戻っていったそうである。

●私は、得意になって、日米不開戦論を述べた。支那事変も、解決しないのに、夢物語のような日米戦争を始めるわけがない。私は、軍人も、政治家も、普通以上の現実家と、信じていたから、新聞その他で、強硬論を宣伝するのは、目下行われている対米交渉を、有利に進める策略だと思っていた。

●大暴挙と考えていた対米開戦に、何の躊躇もなく、既に参加している自分の心に、奇異を感じずにはいられなかった。何か、幅広い溝を、一足跳びに、跳び越してしまったような気持ちがした。国民という意識を、この時ほど、強く感じたことはなかった。同時に、私は、自分個人のことも考えた。「負けたら、えらいことになるぞ。麻里も、千鶴子も、どうなることか、知れないぞ」私は、一生のうちの最大の危機に際会している気持ちがした。ブルブル、体が震えた。しかし、その恐怖を撥ね返して、子供の時から培われた、男の勇気というものも、湧いた。

●あの四年間のうちでも、開戦の日ほど、印象の深いものはなかった。誰もが、あの日ほど、真面目な、謙遜な気持ちを、持ち続けたら、人間の生涯も、たいがいの難局を、打ち破れるだろう。戦争だって、あんな悲惨な結末を、見なかったかもしれない。ところが、あの翌日から、翌年の春にかけて、次々に発表された、空想的な戦果が、人を酔わせ、狂わせた。努力もしないうちに、幸運が、先に見舞ってきたら、気を緩まずにいられない。

●麻里のうちに、内省的、求心的な性格が、かたちづくられているということが、私にわかり、それが、必ずしも、私の喜びではなかった。浮薄でないことは、嬉しいが、非社交的ということは、私自身、いろいろ不幸を味わっていた。それでも、男性の孤独は、まだ忍びやすいが、女性の場合は、生きることにさえ、困難を伴うであろう。

●私は、戦争に勝つために、何でもしようという気持ちがあったが、書くことは、自分の流儀でやりたかった。それでなければ、書く甲斐はないと思った。そして、そういうやり方で、戦争の前半を通してきて、多少の効果があった。ところが、戦局がむつかしくなるにつれ、情報局あたりの言論統制方針が、狂気じみてきた。誰も、同じ曲譜の太鼓を叩かなければ、反戦の烙印を押すようになった。したがって、すべての文章は、無意味で、粗雑を迎合に、充ちた。

●私は、東京を離れて、開戦以来の心の動揺と、疲労の深さを、却って、知ることができた。私のような弱い人間は、所詮「第一線」から逃げ出すのが、当然の運命だと、思った。東京にいる頃、私は私なりに、戦争に参加しているつもりだったが、この土地へ(御殿場)きてからそういう気持ちがなくなった。

●「子供たちは、進駐軍の兵隊の方が、先生より偉いと思っているから、何も、いうことを、きかなくなりました。私自身(獅子文六のもとを訪れた若い教師)も、どういう風に生徒を導いていいか、全然、自信がなくなりました。そして、県の教育当局も、何も、具体的な指導方針を、示してくれないのです」

●(東京裁判には)私は、何の厳粛感も、恐怖感も、与えられなかった。裁く方の側にも、何の威厳もなく、裁かれる側も、これが日本の運命を背負っていた人々かと、疑わせるほど貧弱に見えた。