未熟者が牛耳る世界

 米国のトランプ氏は支持率低迷、日本の安倍氏森友学園と、ともに抱えた国内問題から目を逸らす手管として、海外課題(シリアでの生物化学兵器北朝鮮における核兵器開発)が利用されている。

「生物化学兵器の利用」や「核兵器の開発」は、誰が見ても「良くないこと」であるから、それに対して強行な対抗手段を採ることは、政治的正義として正当化される。

トランプ氏が「アサド政権の化学兵器使用で多くの罪のない子供たちが殺された。シリアは正義の裁きを受けるべきだ」と主張すれば、たとえ強硬な反トランプ派でも、この言い分に論理的な反駁を加えることは難しい。

「世間的な常識」や「人類普遍の正義」をバックになされる主張ほどヤッカイなものはない。そして、世間知のある、あるいは狡猾な者ほどこれをよく認識し、きわめて有効に利用する。たとえばヤクザはこういうことが大得意だ。

ヤクザは債権の回収にかかるとき、債務者にこういう口吻で迫るという。
「借りた金を、決められた利息で、決められて期日までに返すのが、人間の正しい道ってやつじゃないですか。あなたは人の道に外れたことをしてるんですよ。私の言うこと間違ってますか?」

「借りた金は、約束した利子を付けて返す」は、民法の定めに適っているだけでなく、「世間的常識」や「人類普遍の正義」に立脚した至極穏当なもので、これに有効な反駁を加えることができる人間はいない。

ヤクザはこの常識的な論理を、常識的でない演出、つまり押しのきいた服装、ドスのきいた声、圧迫的な状況等々で相手にぶつける。相手は、この常識と非常識の狭間で締め上げられ、震え上がり、逃れられなくなる。

トランプは不動産業界という準ヤクザ業界、見ようによってはヤクザ社会以上にアコギな世界でのし上がった人間だから、このあたりの呼吸は心得たものだ。

彼はこの呼吸を「ディール(取引)」と称しているが、彼がこの言葉を使う時、本質的に意味しているのは、脅し、すかし、なだめを駆使して相手の心理状態を揺さぶり、自分のペースに巻き込み、いいように操るテクニックである。トランプは、常識と非常識をナイフとフォークにして、皿の上のビフテキを食らい尽くす男だ。

今回、大統領トランプが駆使した「非常識」は、シリアにおいてはミサイル攻撃、北朝鮮においては空母による示威行動である。ともに過去の米政権が一度ならず検討したが、あまりのリスクの大きさに二の足を踏んだ選択である。

さすがにトランプでもそのリスクは認識できていないわけではなかろうが、彼が彼自身の政治的稚拙さから招いた、ホワイトハウスで日々直面している政治的危機は、地球規模の軍事的リスクなどといった「世間の事情」など構ってられないレベルにまで達していたのである。これは実際、かなり恐ろしいことだが、自分が助かるなら地球が破裂してもいいと、時には思い込むのが、人間というものではあり、大国の大統領といえども、当然ながら生身の人間である。

海千山千のヤクザ者であるトランプ氏に比べると安倍晋三の歩みは平板だ。小学校入学から大学卒業までエスカレータで進級し、サラリーマン生活に腰掛けたあと、父親の鞄持ちをし、結婚相手は親にあてがわれ、父親の死後は、その地盤・看板・鞄をまるごと引き継ぎ、した苦労と言えば国会や政界で降りかかってきた各種大小のイザコザと、持病の大腸炎だけである。

安倍晋三の目下の癒しは、税金を原資にした発展途上国での優雅なお大尽遊びで、これは政府専用機貸し切りのゴージャスな海外旅行も兼ねている。そして現在の国際情勢の中で彼が果たせる役回りといえば、親分が繰り出す折々の「ディール」に、ただひたすらに「支持」を表明するだけのトンマな子分の役だけである。

とはいえ、一国のあるいは世界の「歴史」というものは、ドナルド・トランプ安倍晋三といった生身の端役たちの個人的都合や狭量な感情で、その本流のベクトルが変わるものでもない。シリアの政府軍基地にアメリカ軍のミサイルが降り注ぎ、朝鮮半島アメリカの原子力空母が徘徊するに至るには、歴史の必然的な潮流がある。

北朝鮮」という国が存在し、今のような内政的には悲惨、対外的には危険な国家と化したのは、むろん現独裁者の「手柄」でも「悪事」のせいでも、いわんやトランプがかけ安倍が乗っている「圧力」の効果でもない。大げさに聞こえるかもしれないが、話は古代からはじまっている。

周代の文治政治あるいは徳治政治を理想型とする、中国やその最優等の周辺国ともいえる朝鮮では、「軍事」は、物理的・暴力的に人を操る卑しむべきもので、それに携わる兵士や軍事官僚はある種「けがれた」存在でもあった。

軍事関係だけでなく、あらゆる専門的技能者、つまり職人や芸人などの特殊技能者や科学技術者は、その技芸が達者であるがゆえにイロモノ視され、社会的に貶められていた。こういった価値観は、論語が説く「君子は器(特定技芸の専門家)ならず」の影響を少なからず受けていると思われるし、逆に論語の言説が当時の社会的価値観を映しているといえるのかもしれない。

儒教イデオロギーにおいて「文明」とは多分に精神的なもの、あるいは社会儀礼的なものを指し、現代人がイメージするような法制的・科学的・物質的な開明ではない。

軍事的練達も科学技術の興隆も疎かにして、国内の上下関係にばかり神経を尖らせて、典礼の手続きやお行儀ばかりに執心している国が、領土的野心を満々と湛えた周辺蛮族の暴力の餌食になるのは時間の問題だった、ともいえるが、視点を変えれば、国外への軍事的威圧や、国内への警察的束縛に依ってではなく、(外形上に過ぎないのかもしれないが)「徳」や「礼」をもって国が治まっている状態が現出していたことは、世界史上の白眉であり、一種の奇跡とすら言えるのではないだろうか。

ある歴史家の言によると、「人間の文明度を計る基準は二つあり、それは、人命の犠牲に対する敏感度と、衛生に関する敏感度である。この敏感度が低い個人や民族や国民の方が(戦争に)強く、負けるのは文明度の高い方で、勝つのは常に低い方」なのだそうだ。

これを「行儀がよい秀才より、狡猾な不良の方が、喧嘩は強い。よって秀才はいずれ不良によって征服される宿命にある」と言ってしまえばそれまでだが、李氏朝鮮しかり、中国の各王朝しかり、ローマ帝国しかり、我が大和朝廷しかり、猛々しい乱暴者が暴力(武力)によって穏やかな周辺諸国を征服し、始祖となり王朝が継続していくが、その承継者たちがしだいにお行儀がよくなっていくに従って、権力はゆるみ、組織はたるみ、国全体が弱体化していき、強壮なる新興の周辺蛮族に暴力によって滅ぼされるプロセスは、ほぼ人類史の興亡におけるセオリーである。

朝鮮国は永らく「文明」が咲きにおう国であった。これは反面、朝鮮半島が軍事的にはほぼ「空白」地帯であったことを意味する。徳川時代末期から明治時代初頭にかけてアジアに伸長してきた先進国のグローバリズムが、ここに広大な「真空地帯」があることを見逃すはずがなかった。

この軍事的空白地帯としての朝鮮半島を、領土的野心をもって眺めていたのが、老いたる帝政ロシアと、維新を経たばかりの、新興・大日本帝国である。その後両国の間で勃発する日露戦争は、老大国と新興国による「朝鮮半島争奪戦」であった。

なお、司馬遼太郎日露戦争のことを「祖国防衛戦争」と観じ、もしこの戦争に日本が敗れていたら日本国土はロシアに占領され、自分たちはなんとかスキーとか、なんとかエフといった名前になっていたかもしれない、と述べている。この仮説を確かめるすべはあるはずもないが、そうなったかもしれないし、そうでもないような気もする。

当時のロシアは、日露戦争敗戦後にロシア革命が起きたことに象徴されるように、国力は衰微の極みであったから、たとえ日露戦争に勝ち、日本に乗り込んできたとしても、領土経営ができるほどのエネルギーはなかっただろうし、ロシア軍が乗り込んで来たら、それこそ当時の日本人は「本土決戦」を決心して頑強に抵抗したであろう。

そうなれば、ロシア軍の犠牲も甚大なものになることは避けられず、そういうシミュレーションができる国家官僚がいればの話だが、たとえ戦争に勝ったからといってロシアは日本を軍事的・政治的に占領しようなどとは思わなかっただろう。

空想ついでにもしロシアが勝っていたら朝鮮半島はどうなったか。当然、そこはロシア領になるのだが、日本領になるのと、ロシア領になるのと、朝鮮人にとってどちらがマシだったか、という究極の選択に答えは無い。確度が高い答えは、ソ連が成立したときに朝鮮はその一部の共和国になるか、ロシア共和国に完全に溶け込むかしただろうから、現代のような南北に分断されるような状態になることは、少なくともあり得なかったであろう。

日露戦争前夜に話を戻すと、当然ながら、朝鮮国(李氏朝鮮)としては、独立国家であるはずの自国領土を巡って他国が争奪戦を繰り広げるなど、失礼かつ迷惑千万な話である。

この状況を例えてみれば、どちらとも付き合いたくない男同士が自分を巡って殴り合いの喧嘩をしているのを眺めている女子のようなものだ。(竹内まりやのヒットソング「けんかをやめて」の状況に少し近い)

「喧嘩」が終わって、辛うじて勝ち残った大日本帝国が「邪魔なロシアは追っ払った。さあ、おれと結婚しろ」と迫ってきた時から、朝鮮半島の苦難の歴史は始まった。

中国の柵邦国として、儒教国家として最優等の地歩を占め、文明国としての立場から野蛮国として見下してきた日本から、古代から卑しんできた軍事的威圧をもってして占領され、あまつさえ一時的にでも国家が消滅した歴史は、文明人としての矜持を持つ朝鮮人にとって、屈辱としか言いようがないものだ。

南北を問わずる朝鮮人は共にこの屈辱の歴史を忘れないように、未来永劫語り継ごうとしている。片方の当事者である日本は「もう昔のことはいいじゃないか。未来に向けて前向きに行こうぜ」とばかりにこの歴史を忘れ去ろうとしている。この彼我の意識の差は途轍もなく大きい。

日本の手による国家消滅(韓国併合)が朝鮮人受難の第一段階だとすれば、太平洋戦争における日本の敗戦とともに第二段階が訪れた。つまり日本が朝鮮半島から撤退することによって、軍事的空白が再び訪れたのである。

この軍事的空白に、真空地帯に空気が入り込むように、乗り込んできたのが、資本主義・民主主義陣営の盟主であるアメリカと、共産主義ソ連および中国である。

ヒトラー率いるナチスが消滅した後のドイツの軍事的空白は、ほぼ無血プロセスで東西両陣営の割譲によって埋められたが、日本が居なくなったあとの朝鮮半島の軍事的空白では、血で血を洗う米ソの代理戦争が勃発することになった。

同じ軍事的空白なのに、なぜドイツは「無血割譲」で、朝鮮は「血で血を洗う」ことになったのか。ポツダム会議の場においては、共にかなり具体的な終戦後の割譲案があったらしいが、ドイツにおいてはそれがほぼ遵守され、朝鮮においては反古にされ理由は、自分にはよくわからない。

とにかく、ソ連と中国の支援を得て、当時軍事的に優勢だった北朝鮮は一気に朝鮮半島の統一を果たすべく、休戦ラインを破って南への侵攻に踏み切った。

ソ連は一介の地方馬賊の頭領(金日成)に目をつけ、これを御輿に担ぎ上げ、陰に日向に支援する戦法を採った。一方のアメリカは「国連軍」とい錦の御旗を立てて戦った。つまり朝鮮人は図らずも米ソの代理戦争に巻き込まれたのであって、もともと民族同士が憎しみあって分裂したのではない。

朝鮮戦争は、朝鮮人の5分の1が死亡したともいわれる凄惨きわまりない戦闘だった。アメリカ軍の前進基地だった日本は戦争特需に沸き、これがバブル崩壊まで伸張を続けた「高度経済成長」の端緒になった。

誰の意図でもない歴史の巡り合わせとはいえ、結果的には、朝鮮人の受難が、日本人の経済発展に繋がったことは否めない。資本主義には、こういった一種残酷なゼロサムゲームの顔がある。

現在の朝鮮半島の姿をつくったのは、朝鮮半島の軍事的空白であり、明治時代にその空白を(頼みもしないのに)埋めた日本であり、昭和の戦争のあと日本が去った真空地帯になだれ込んできた、アメリカであり、ソ連であり、中国である。

つまり、現在の半島情勢は、北朝鮮や韓国の国民が自ら選んだものではなく、彼らは歴史の大波に翻弄されてきたに過ぎないのである。

では「これから」の半島情勢はどう予想したらいいだろうか。この問いには「予想がつかない」と答えるのがもっとも誠実な回答だろうと思う。

なぜなら、当事者であるアメリカ、北朝鮮、日本のどの国の「指導者」たちが揃いも揃って、知性も、教養も、国家観も、未来ビジョンもまるで無く、虫の居所だけで行動を決める、要するに未熟な人間たちだからだ。未熟な人間はまともな観察に値しないし、「虫の居所」は客観的な分析対象にはならない。

しかし、現代史の常識を踏まえていれば、ある程度予想がつくこともある。北朝鮮アメリカ(および日本)がもし戦争状態に入るとすれば、これはれっきとした国家間の戦争である。現在、地球上のそこかしこで行われているテロリズムではない。

国家間の戦争は、第一次世界大戦を嚆矢として、国力(経済力・工業力・天然資源力・農業力・貿易力・政治力・思想力・人口力・教育力)全体を傾けた総力的持久戦に至ることがセオリーになっており、「米朝戦争」もその例外ではない。

となれば、米朝間の「国力」の差は歴然としすぎているのだから、北朝鮮が米国との近代的な国家総力戦に勝ち抜ける望みは万に一つもなく、どういうプロセスを経るにせよ、戦争に入ることはすなわち北朝鮮の現体制の崩壊を意味する。北朝鮮の核開発や一連の軍事的挑発のそもそもの目的は「現体制の維持」にあるのだから、戦争に突入して、現体制が崩壊しては元も子もないのである。

ただ、北朝鮮が、必敗の「国家総力戦」を避けながら「戦争」をする唯一の方法がある。それが核攻撃である。核攻撃には通常のような戦略や戦術は不要である。つまり、核兵器の破壊力のあまりの凄さは、通常の軍略や戦術など根こそぎ吹き飛ばしてしまうほど圧倒的なもので、だからこそ北朝鮮一点豪華主義で核開発に邁進しているのである。

ある軍事専門家は「核戦争」という言葉すら不適当で、核を使った国家戦闘は「核混乱」と呼ぶべきだという。核兵器はどちらかが使ったら最後、以後、正規の戦争継続(変な言葉ではあるが)は不可能になる。国家総力戦という近代戦争の概念そのものが吹っ飛び、ゲリラ(工作員)が暗躍し、テロが跋扈する大混乱に陥る。そういうカオスは北朝鮮の思うつぼであろう。

つまり北朝鮮米朝戦争を凌ぐには、上記の「核混乱」に持ち込むしか方法がなく、それをするには核の先制攻撃に出るしかない。

では北朝鮮はどこの国に向かって核攻撃をするのか。考えられる対象国は三つしかない。米国、韓国、そして日本である。まず「米国」は、そこまで核ミサイルを撃ち込む能力がないからあり得ない。そして「韓国」はそもそも同じ言葉を話す同一民族で北朝鮮の究極の目的は朝鮮半島国家統一だからその土地に核ミサイルを撃ち込むことは躊躇するだろう。となれば、残るは日本しかない。

もっともこれは、核弾頭を積んだミサイルを狙いをつけた都市の上空で計算通りの高さで爆発させる技術を北朝鮮が持っているとしての話だし、先述したように彼らの核開発の狙いは「現体制の存続」であり、いうなれば核兵器は彼らにとって「体制存続のための人質に突きつけている刃物」という位置づけになる。

つまり、日本を核攻撃することは「目的物を手に入れる前に、公然と人質を殺す」ことなので、その可能性は低いだろうと思う。もっともこういった推測は、「分析する相手がまともな思考力を持っている」という前提が要るのだが。