本当に危ういアベノ外交

平成25年12月26日、安倍晋三首相が靖国神社に参拝した。政治的・外向的存在になって久しいややこしい場所へ、あまつさえ中国や韓国との関係が冷え込んでいるこの時期に、わざわざ首相が参拝する以上、なんらかの戦略的意図があって然るべきだが、それが全然見えない。見えているのは単なる個人的情念だけだ。

そもそも、この靖国神社の日本における存在位置を、中国や韓国にご注進してわざわざ「ややこしい場所」にしたのは一部の左翼の日本人だし、唯物論を旨とする共産主義を国家思想にすえる中国には、

「金属のかたまりにすぎないツルギとカガミ、紙切れにすぎない戦没者名簿をありがたがり、物理的に存在しない『英霊』に祈りを捧げる日本人の『イワシの頭』信仰の未開ぶり」をせせら嗤って放置してくれれば本来いいのだが、こういうことはもはや言ってもせんないことだ。

靖国神社はもう既成事実として「政治的・外向的にややこしい場所」に変容してしまったのだから、その事実を起点にして施政者は考えを組み立てなおし、振る舞いを選ばなくてはならない。これはビジネスのパートナーである中国や韓国のご機嫌を損ねてはならないといった矮小な話ではない。国民の生活と生命に関わる問題だ。

それにしても、「中国や韓国を傷つける気など毛頭なかった」とは、まるでいじめっ子が「いじめている気などまったくなかった(だから赦してくれ)」と釈明しているのと同じレベルだ。自分がどういう気なのか、なんて関係ない(傷つける気があったら論外だが)。その言動が、「相手にどう受け止められたか」だけが現実的な問題なのだ。「政治は結果だ」という首相自身の言葉は、本来そういう意味である。

さらに「首脳同士の会談で、意図を説明したい」という発言にいたっては、この期に及んでそういう融和の場がセッティングされ、あまつさえ自分のおしゃべりに相手が納得し、承伏し、握手をもとめるシーンを妄想できる空想性に至っては、あきれるよりほかない。この人は、ほんとうにこんな事を思っているのか。それともこれでも「外交辞令」のつもりなのだろうか。

では、いま中国と軍事衝突して日本にどんなメリットがあるのだろう。もし勝ったとしても、せいぜい尖閣諸島を名実ともに領有できるぐらいだろうし、そもそも中国が核兵器を温存したまま日本にしおしおと降参するわけがないのだから、たとえ日本が戦いを途中まで優勢に進めたとしても、それは広島・長崎に次ぐ三発目の核爆弾が国土に落ちる可能性がどんどん高まっていくことでもあるのだ。

戦争というものは本質的にルール無用の全面的な喧嘩なのだから、もっとも威力のある殺戮兵器を持ちながら、道義心から封印しそのまま負けるなんてあり得ない。つまり、勝っても地獄、負けても地獄が待っているのが、世界有数の核保有国たる中国との戦争なのだが、彼にはそのことがほんとうに判っているのだろうか。

それとも、核戦争なんか起こりっこないとタカをくくっているのだろうか。(もっともこういった楽天的人生観は政治家の重要な資質なのかもしれないが)石原完爾は「最終戦争論」で、人類を殲滅させるような兵器が開発されればそれが抑止力になり世界平和が訪れる、という主旨のことを述べているが、

この予言は大国間の全面戦争抑止においては一面当たったように見える。長きにわたった東西の冷戦もついに現実的な戦争に至らなかったのは、この「核の抑止力」があればこそだろう。

しかし、「核の抑止力がある以上、核戦争なんかできっこないのだから、どんなに相手国の感情を害しても大丈夫だ」という論理は、どこから見ても品性下劣なうえ国際信義に反してもいるし、人間が感情の動物である以上、追い詰められ、激情にかられた施政者が核ボタンをうっかり押さない保証などどこにもない。また、リアルな殺し合いにならずとも、バーチャルなサイバー戦争になる可能性までは排除できない。

サイバー攻撃は、やりようによっては、国家の経済・行政・軍事システムを崩壊させ、国民のライフラインを麻痺させ、場合によっては核攻撃かそれ以上の甚大な被害を与えうる。さらにいえば、サイバー攻撃の被害を、核攻撃で報復することはまずできないのだから始末に負えない。いかな怜悧な石原でもサイバー戦争までは想定が及ばなかったにちがいない。

あるネット調査によると、今回の靖国参拝を70%以上の人が支持しているというが、だからといって靖国参拝が妥当だったということにはならない。それをいうなら、大東亜戦争開戦前後の軍部への国民支持率はおそらく70%どころの話ではなく、そして、その結果はどうなったか。300万人以上の命が失われ、生き延びた人々にも筆舌に尽くしがたい苦しみを与えるという酸鼻きわまる結果になって跳ね返ってきたのではなかったか。

国家の命運を左右する切所において、瞬間風速の「多数決」や「国民の支持」というものがいかに致命的に国益を損なうかは、どんなに意識しても意識しすぎるということはない。

安倍首相にとって前政権時代に靖国参拝をしなかったのは「痛恨の極み」だったらしい。日本における「保守層」と呼ばれる人たちの「期待を裏切った」あと、雌伏の数年間は他日の「首相としての靖国参拝」を心中に期してきたということは、個人的情念としてはよくわかる。どこかで言っていた「他国の干渉のせいで日本国の首相が足を踏み入れることができない場所が日本国内にあってはならない」という論理も理解できる。

しかし、それらへの極私的な拘泥が究極的に国家にどのような影響が及ぶのかの理性的な判断がなされた形跡がまるでない。あったとしてもそれを国民に説明しようという意欲も(そして能力も)まるで感じられない。首相が表明しているのは、「尊い犠牲を払った英霊を拝するのに他国になんの遠慮もいるものか」ということだけである。(もっともこのシンプルさがあればこその瞬間風速的な国民の支持ではあるが)

政治家の使命は、プラグマティズムを旨とし「国益を最大化する」という点にある。それ以外はみな付けたりだ。そして今回のケースにおけるプラグマティズムとは、

靖国を参拝することによって得られる国益」と、「参拝をしないことによって得られる国益」のどちらが大きいかの比較考量を、あらゆるファクターを素材にして厳密に行うということに尽きる。

首相の行動にはその厳密さを欠いている以前に、比較考量自体をまるで行っていない気配すらある。ひとつだけ考えられるのは、わざと中国や韓国、そしてアメリカまで怒らせるマネをして、「従軍慰問題や戦後補償問題をいつまでもじくじくと言い募る何かとうざったいアジアの近隣諸国たちと金輪際手を切り、そして日本婦女子を性懲りもなく強姦しつづける迷惑千万なアメリカ軍に日本から年末大掃除よろしくすべて出ていってもらうことによって得られる国益」を目標とする戦略だが、

それならそうと、その戦略の妥当性を国民に向かって説明する義務があるし、それどころか、こういった重大な国家的選択は、首相の情念的独断ではなく、衆議院総選挙あるいは国民投票レベルの手続きを経て下すべき筋合いのものだろう。

こうなってみると、国政トップになまじっかな「ぶれない信念」など持たれることが国民にとっていかに迷惑であるかもよくわかる。みょうな「矜持」や浮薄な「空気」に流されない、徹底的なプラグマティストでないと、国家運営を託すにたりないのだということも。