正月という「幻想」

 近所の神社に初詣にいき、長蛇の列を並んで賽銭を投げ、形どおりの参拝をし、おみくじを引いてきた。おみくじは過って二枚取り出してしまい、そのうちの一枚を売り子である巫女さんに返すときに「どちらが良い出目だろう」と一瞬ためらった。

自分の一連の行動には、科学的・合理的に説明のつくものはいっさい含まれていない。いわば「日本の伝統文化」という幻想に踊らされていたようなものだが、それを終えて帰路につく気分は(おみくじが中吉だったこともあり)じつに晴れやかなものだった。そして、この「晴れやかさ」の正体はいったいなんなんだろうと考えた。

「○○なんて、しょせん幻想だ」という物言いは、言う人が利口者らしく見えることもあり、世間でよく使われている。世に「しょせんは幻想」視されるものといえば、「貨幣」「国家」「宗教」などがその代表例として挙げられるだろう。これらはたしかに「人びとの間で共有された観念=幻想」であろうが、たとえそれが幻想であっても、それを徹底して軽んじることができる人はまずいない。

たとえば、「カネなんてしょせん幻想だよ」と日頃うそぶいている人でも自分の銀行口座から預金がごっそり盗まれれば怒り狂うだろうし、「国なんてしょせん幻想だよ」と取りすましている人でも海外渡航中にパスポートを紛失すれば蒼くなるだろうし、「宗教なんて幻想だよ」という人でも大切な肉親を亡くせば何らかの葬送の儀式をせずにはいられないものだ。

たしかに「しょせんは幻想」的視点は、真理の一片をするどく突いてはいる。この視点をもって世の中を眺めなおすことは、思考を深めるためのきわめて有効な手管でもある。しかし、この視点への過度の拘泥は、実人生への不適応につながりかねないことを、生活実感レベルでめいめいはちゃんと解っている。

このように「幻想」には、広く共有され、深く浸透されるにしたがい「現実」に近づいていくという性質があり、そして、ひとたび「現実」と化した幻想は、盤石の存在感をもってその影響力を人々の思考や行動に及ぼし続けるものなのである。

おそらく、「お正月」も「初詣」も「おみくじ」も軒並み幻想なのだが、その共有幻想の成り立ちの歴史と、いま社会と個人に及ぼしている影響力は、決して「しょせんは」で片づけられるような軽々しいものではない。自分が感じた「晴れやかさ」の正体は、その歴史と影響力に曲がりなりにもコミットできた充足感でもあったのだろう。