書生論の危うさ

「戦争を抑止するために軍事力を高める」という思考は、「喧嘩をふっかけられないために空手を習う」という発想と根を一にし、一定の合理性があるが、さらに高次の合理性は「喧嘩相手をつくらないためのコミュニケーション力を身に着ける」という思考と行動である。空手を習ったり筋トレをしてマッチョになるのもよいがこちらの方が余程重要だ。

安倍氏に決定的に欠けているのは、この「コミュニケーション力」だと思う。中国と戦争するのは自衛隊の役割だが、中国と戦争にならないようにするのは政治家の責任だ。こういう発想や行動が採れない、あるいは採るための知恵や哲学がないという意味において、彼は決定的に二流以下の政治家だと思う。

しかし対外的に「従属」か、「睥睨」か、「敵対」かのいずれかの態度した採れないというのは、日本国の哀しむべき外交的伝統でもあり、安倍氏もその例外ではないという意味では彼は歴史的な存在でもある。

 第一次安倍内閣時代のみっともなさの極みのような退場の仕方と、現政権でも傲岸不遜の極みのような態度を並べて眺めると、彼は「情けない」態度か「勇ましい」態度かのいずれかしか採れない政治家であることがわかる。政治家に必要なのは、情けなさでも勇ましさでもない。したたかさである。

「したたかさ」の具体的内容は、といえば、「とにかく四方八方と上手くやる」ということに尽きる(ちっとも具体的ではないが)。アメリカとも上手くやり、ロシアとも上手くやり、中国とも上手くやり、韓国とも上手くやる。

「そんなことをどうしたらできるのか」と訊かれても困る。それをするのがプロの仕事だろう。それができない政治家は政治家なんて辞めればいいのだ。その証拠に、かつての自民党の食えないオヤジたちは、立派にその努めを果たしてきたではないか。

自民党が戦後長らく国民の支持を得てきたのは、その「のらりくらりの食えないオヤジ」のしたたかさが信頼されていたからだ。左翼のような世間知らずでは、とても極東の島国は外交闘争をしのいでいけない、自民党的な融通無碍、国益のためなら何でもするような強靭さが必要だ、と考えていたからだ。

今の安倍政権にあるのは、かつての自民党が持っていたような練熟したオヤジの頼もしさではなく、書生的な未熟さと危うさだけだ。危なっかしくて見ていられない理屈、答弁、態度、それらが強く国民の不安を煽っている。

その事態の本質に気づかないと、裸の王様が目かくししてストリーキングしているような、みっともない今の状況から脱することはできないだろう。

今安倍政権は、安保法制の理解を得るために中国や北朝鮮をダシにする戦術に切り替えているが、「尖閣諸島に攻め込んでくる中国」と米国と協働して交戦するには現行の日米安保条約の発動があれば十分であって、地理的制約を折りこんでいない集団的自衛権の行使は必要がない。

つまり、あくまで「中国や北朝鮮」は方便であり、今回の「集団的自衛権行使」や「安保法制」にはまったく別の目的がある。全く別の目的があるにもかかわらず、他国を勝手に悪党呼ばわりして(実際に悪党的ではあるが)持論を担保するダシに利用するとは、国際道義的以前に人としてどうなんだろうか。

では、今回の安保法制の「本当の目的」は何かというと、これは「世界の守護神たるアメリカ様が、世界平和の実現を目指して世界中で展開なさっている正義の戦争を、及ばずながらお手伝いをする」ということである。

安倍政権の安保政策支持者や右寄りの人はこの「安保法制の目的はアメリカの戦争の手伝い(あるいは尻拭い)をするためであり、中国や北朝鮮はダシに過ぎない」ということの本質が恐らく理解できていない。

よしんば理解していた上で「アメリカの戦争のお手伝いをしなければ、対中国戦争でも援けてもらえない」と恐れているなら、「そんなにかんたんに日米安保条約を反古にするほどアメリカという国は信用できないのか?」という全く別の観点からの議論になる。

そもそもそんな不誠実な国が勝手に世界中で行っている戦争の尻拭いをする義理もないし、尻拭いしたところで結局まともに中国と「戦ってもらえない」、というオチになるだろう。

このあたりの理路は若干こみいっており、頭の働きの怪しい人には解しにくいところがある。だから、すぐ「安保法制なくしてどうやって中国や北朝鮮から身を守るのか」という解かりやすい結語にショートカットして安心しがちなのであるが、ここはひとつ頭を働かせて冷静に理路をたどって欲しいところではある。