ものの値打ちについて

 これまで自分がした一番高い買い物は中古の自動車で、たしか150万円ぐらいだった。銀行から現金でおろし、翌日中古車屋に渡すまで一晩いっしょに過ごした。夜眠るまえに、畳の上に150枚の一万円札を敷き詰めて、その上を転げ回って楽しんだ

・・・と書きたいところだが、残念ながらそんなエピソードもない。ほのぼのと金をおろし、ほのぼのと支払い、ほのぼのと乗って帰った、というのが実際のところだった。

ところで、「出す(あるいは出る)」というのは多くの場合一種の生理的快感を伴うものだ。排泄行為から家出や離婚や転職まで、人間は「出」の快楽を求めてさまよう存在だ。「金を出す」という行為も例外ではなく、この行動が中毒化した状態を「買い物依存症」という。

排泄や転職はともかく、「金を出す」という行為に快感を感じる心理ほど、今の自分に縁遠いものはない。かといって、金を払うのが苦痛だと言うほどケチでもなく、ただ享受した利益の対価として自分でリーズナブル(文字通り「理由がある」」という意味)だと受け入れた金額を払うだけである。

しかし、この「リーズナブル」がくせ者で、その合理的判定はいつも困難だ。たとえば「株は安いときに買い、高いときに売ればいい」というが、その「高い」「安い」はどこで決めるのか一筋縄ではいかないだろう。そして、そういった判定力は自分には乏しいと思っているので、あらゆる投資行為はしないと自分は心に決めている。

金(マネー)には、三つの働きがある。一つは「取り持つ機能」である。金の持つこの機能によって、世の中にある多種多様な商品を物々交換の手間無しに手に入れることができるようになった。

もう一つが「貯める機能」である。この機能によって今は必要ではないがいずれ必要になるモノやコトに備えることができるようになった。

最後は「値付けする機能」である。この機能によって、その商品の市場価値が定量的に明示できるようになった。

この三つのうち、最初と最後の機能は有機的に絡み合っている。つまり、金を商品交換の媒介にするには、商品の市場価値が数値的に明示されることが不可欠だからである。ひらたくいうと、金を払い商品を買うには「値段がつけられている」ことが必要だということである。

だだし、もう少し話を細かくすると、売り手が値段をつけただけではものの価格は定まったことにはならない。では、どのようにしてモノの価格はつくのか。それは株式市場を見ればわかる。株価とは、すなわち、「売り手が提案し買い手が受け入れた数字」を意味する。

つまり、売り手つけた値段は「値札」に過ぎず、それだけではモノの価格が決まったことにはならない。買い手が付いて初めてその価格が決定するわけだ。

たとえば、「なんでも鑑定団」で「なんでも鑑定士」が値を付けた値は価格ではない。なぜなら、売り手でも買い手でもない第三者が勝手に数字を張り付けているだけだからだ。「この価格でこの場でわたしが買います」と「鑑定士」が宣言しないかぎりそれは価格ではない。そこに至らない数字は「価格」ではない。「批評」である。

人間の値打ちというものも、同じようなものだ。一人の人間の値打ちは、自己評価と他者評価の妥結点で決まる。誰か他者に「買われて」あるいは「選ばれて」初めて人間の値打ちは決まる。これは労働市場でも恋愛市場でも同じだ。この事情は株価の決定過程と択ぶところがない。

自分の「値打ち」を自分で測るのは難しい。それは、どこまでいっても人間は自分以外の人間にはなれず、自分を外側から観ることが不可能だからだ。

「自分を客観視する」「自己相対化」など、しょせんは絵空事なのだが、それでも努めるのと努めないのとでは、生き方が違ってくるようにも思う。けれども、そもそも自己を客観視したり、定量的に相対化iすることは、可能不可能以前に、本当にいいことなのかどうなのか。

俗に、人間は自分の容姿や能力を二〜三割増しで評価していると言われるが、それはいつでも世間というものは個人の自信を削り取ろうと手ぐすね引いているから、それぐらい余剰在庫を持っていないと人生がたちゆかないという裏事情もあると思う。

身ぐるみはぎとった「等身大の自分」で世に出ていくなど、丸腰で戦場に出ていくことに等しいぐらい、無茶なことかもしれない。「自分はすごい」という誇大妄想で二重三重に鎧わないと、とても渡っていけないような冷厳さが世間にあるのもほんとうだ。

そもそも「自分の値打ち」を知ることもいことなのかどうかもわからない。「知らぬが仏」ということもある。「俺は有能だけど、世間がボンクラだから認めてくれない」「こんなにいい女なのに、男には見る目がない」と不平不満をこぼしつつウカウカ時を過ごすのも、それなりに甘美な人生かもしれない。

なんて結論だ。。