70年ぶりの出征風景

「駆けつけ警護」とは、例えば国連職員が武装勢力に襲われた時に自衛隊が武力を以て助ける、ということだが、その時自衛隊は「相手への反撃」という形でしか武力行使はできない。つまり、高倉健やくざ映画アントニオ猪木のプロレスよろしく「悪者」から先に危害を加えられないと「正義の味方」は反撃できないしくみだ。

インターネットなどのおかげで、スーダン武装勢力は、日の丸をつけた東洋人の軍隊は、攻撃されない限り反撃してこないという縛りの中にいることを既知している可能性がある。「絶対に先手で攻撃してこない」縛りがある戦力(それも実戦経験のない素人集団)など、百戦練磨の戦闘玄人にすれば、まったく恐れるに足りない存在だろう。

会った瞬間に全火力を投入して一気に殲滅すればいいだけなのだから。

北朝鮮拉致被害者を奪還しにいくわけでもなく、尖閣諸島で中国軍と交戦するわけでもなく、北方領土奪還を目指してロシア軍を攻撃するわけでもなく、「なのに自衛隊スーダンにいくの」だろうか。

安保法制は、集団的自衛権の行使先にアメリカを想定しているが、スーダンアメリカはおろかG7の軍隊はどこもいない。いるのはケニヤやカンボジアルワンダ、ガーナといった発展途上国ぞろいで、めぼしい存在は石油権益という下心がある中国だけだ。

ようするに、自衛隊は中国と張りあうアメリカの代理役としてスーダンに行くのである。内田樹氏流に眺めれば「属国の哀しい定め」「憐れな敗戦国風景」ともいえようが、そんな自虐的感傷にひたっている場合ではない。生身の人間の身体から血や臓器が吹きだし命が失われるのだ。

そもそも、南スーダン自衛隊が「駆け付け警護」任務を帯びて行くことが御主人様たるアメリカの歓心を買うことつながるのかどうかさえ、極めて怪しい。

現在のアメリカと日本の関係に相似しているのは、かつての織田信長徳川家康の同盟関係だ。信長と同盟を組む前、家康は人質だった今川義元の部将だったが、桶狭間で義元が死に息子の氏真の代になって今川家を見限り、信長と同盟を結ぶ。

家康は主家(今川家)を打ち倒した仇敵であるはずの信長と隷従的な同盟を結ぶ。これは敗戦後の日本がともに戦ったドイツやイタリアではなく、自己を半殺しした本来憎むべきアメリカと片務的な同盟関係を結んだのに似ている。

織田信長は世界雄飛を目論むグローバルプレーヤーだった。彼のビジョンにおいて日本統一は通過点に過ぎず、イベリア半島イスラム教徒から奪還した余勢を駆って海外進出したスペインを倣って、統一後は朝鮮半島を端緒にした海外派兵に踏み切った可能性が高いと思う。(これは半ば空想だが)

イラク戦争の前後まで、アメリカは「世界帝国」を築かんばかりだった。世界帝国の例は、古代のアレキサンダー大王、中世のモンゴル帝国、近代のナポレオンのフランスなどがあるが、いつかそれに並び称されようか、という勢いだったのである。

筋金入りの保守政治家である家康は、広大なビジョンを持つ革新派の盟主様の、強引な意向と突飛な行動に必死に食らいついていったのだが、その目的物が本能寺の変で突然消滅する。この事態を今の日本に準えると、イラク戦争後のアメリカの急速な軍事的政治的プレゼンスの消減と、そのトドメとしての前時代的な差別主義者で保護主義者のトランプ大統領の登場である。

トランプ氏は、近代的な人種差別主義者、中世的な女性差別主義者である上に、その日本観は1980年代の日米貿易摩擦時代で止まっており、その政治ビジョンにはみかけの言動のような破天荒なものがあるわけではない。強引さを旨とするキャラクターとしては信長的に見えようが、中味はうるさ型の隠居老人的な、極めて固陋な人物である。

トランプ氏は、新聞も雑誌も本も読まないアメリカの知的最下層をターゲットにしてきたし、氏自身がその層と知的親和性がある。(偏見を言えば、不動産を生業にしているような人はだいたいそうだ)

彼にはこれから大統領として身に着けるべき最低限の分別や、自家薬籠中のものにしなければならない必要最小限の知識が山ほどあるが、すでに齢70歳にしてそんな重負担の知的訓練は無理だろう。

よってトランプ氏がこれから採りうる大統領としての態度は2つに収斂される。ひとつは、選挙中に大衆に喝采を浴びた数々のトンデモ公約そのままの実現を目指すこと、もうひとつは、現実には「自分には何もできない」ことを思い知って沈黙すること。

望ましいのは、「これはできるがあれはできない。できることはこの程度ならできる」という賢明な切り分けをして合理的に政権運営をすることだが、これはかなりハードルが高い。(つまりほとんど無理)この事態は、日本にとって、織田信長が死んだ直後の徳川家康の状態に近似しているように思う。つまり、頼りになりつつも煩わしかったアンビバレントな存在、これまで頭を抑えてきた煙たい存在が突然どこかに消え去って、(良くも悪くも)これまでとは全く別の視界が開けた状態である。

トランプ氏と次期米政権官僚候補たちの頭の中には、アメリカの代理で自衛隊が悲壮な覚悟でスーダンに派兵されることなど微塵もない。あったとしても、どこかのペーパーのまったく目立たない場所に書かれているに違いない。

そんなことに人間の命をかけていいのか。ひとりひとりには家族があるんだぞ。

自衛隊の「駆け付け警護」任務を帯びたスーダン派兵は「骨折り損のくたびれもうけ」ならまだしも、まったく無意味にあたら若い命を散らすことですらあるのだ。

自衛隊南スーダンへのPKO民主党政権から始まったもので、民主党全否定の安倍氏としては早晩中止決定してもよさそうなものだが、それどころか新たな危険任務まで加えて強化するのは、ひたすらにアメリカに尻尾を振るためであるが、トランプ老はそれを斟酌してくれる相手ではないし、そもそも今はそんな余裕もない。

「御主人様」からは褒められないし、日本国民の安否とも関係がなく、したがって目指す相手はだれも感謝してくれない異郷の地での危険任務で命を落とすことを「犬死」と言わずしてなんといおうか。これではかつての特攻隊の方が、一片のヒロイズムがあっただけでも数段マシではないだろうか。

南スーダンPKO>新任務先発130人青森出発(2016年11月21日)
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201611/20161121_23011.html