残った町並み

 京都の町並み。太平洋戦争末期、日本の都市という都市が空爆に遭った中、京都市街が終戦までほぼ無傷だったのは、原爆を落とす最有力候補地として温存されていたからだ。

京都が選択肢から外された最終的な理由は、日本降伏後の占領政策をスムーズに行うためだとされる。ありていにいえば、「京都がなくなった日本にはもはや生きていても仕方がない」とばかりに日本人がヤケになって猛然と噛みついてくるのを恐れたのである。

どこかの復興相の発言めいてくるが、もし京都に原爆が落とされていたら日本はあのような形では終戦を迎えずに、本当に「本土決戦」「一億玉砕」の覚悟を決め、実行したかもしれない。

医学生だった山田風太郎は当時の日記にこう記した。

「京都は残った。残ったのがむしろ癪である。アメリカが自分たちの遊覧地としてこの古都を残したのが癪である。しかし多くの人がいうように、自分たちの遊び場所としてでなく、結局はそうなるわけだが、文化の記念としてこの京都や奈良に手をつけなかったのであろう。つまりそれだけ余裕があったわけで、一層それが癪にさわる」

ソ連なら容赦なく爆撃したであろう。そしてまた、もしアメリカにこのような古都があったとしたら、日本は勿論これを壊滅させるのに何の遠慮も感じまい。少なくとも、日本の軍人は」

たしかに、戦時中の日本が原爆製造に成功し、米本土に投下する航空能力があったら、日本軍はアメリカのどこの都市にでも躊躇なく落としただろう。日本がアメリカ本土を占領することなどたとえ戦争に勝ってもあり得なかったし、「鬼畜」視していた米国民の感情を汲む余裕などもとよりなかったからだ。

とはいえ、アメリカが京都への核兵器投下をすんでのところで思いとどまったのは、「余裕」といよりも、ギリギリの理性が偶然に何かの拍子で奇跡的に働いただけ、なのかもしれない。

第一次世界大戦から国家間の戦争は「総力戦」になったから、戦争前に準備していた武器弾薬や兵站が尽きたら戦いが終わるわけではなく、戦争中もそれらを国力を傾けて生産し続ける持久戦になる。さらに正規軍兵士が消耗すれば、非戦闘員の徴用が始まるという成り行きになる。

総力戦たる現代の国家間戦争を勝ち切るには、目の前の敵を叩くと同時に、戦争継続のための人的資源(嫌な言葉だが)や生産の現場を攻撃するのが合理的な戦略になる。米軍は戦争犯罪を承知でその戦略を採った。日本は真に存亡の危機だったのだ。

だからといって、子供や老人を含む民間人の頭上に焼夷弾核兵器を落としてよい道理はないが、一たび全面的に戦争に突入すれば攻撃が報復を呼び、報復が報復を呼び、頭は熱暴走を始め、国家ぐるみ発狂状態になって、行くところまで行くまで停止手段は無くなってしまう。

今さら言うまでもないことのようだが、日本人の多くの人はこれをすっかり忘れているように思う。戦争は、自分以外のどこかの誰かが、スマートに、正々堂々と、論理的戦略のもとになされるものだと、頭のどこかで希望的観測とともに思っている。

とんでもない間違いだ。

戦争とは、片足がもげたり、体から血が出るのが止まらなくなったり、自分が死んだり、家族が死んだり、もう死んだ方がましだとしか思えない苦痛に蹂躙されたり、自分の生まれ故郷が廃墟になることだ。こういう肉体感覚とともに思考するのが真のリアリズムなのであって、世のプラグマティストを自認する人々が弄する「国際関係のパワーバランス」「冷徹な安全保障戦略」的な口吻こそファンタジーであり、絵空事なのである。