アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック

ロートレックがあこがれていたドガは、踊り子を好んでモチーフにしたが、ドガが踊り子をしばしば描いた理由は、競馬馬をよく描いていたのと同じ理由で、鍛え抜かれた「動物」だけが持ちうる無駄のない外線や、鋭敏な動勢にひかれたからである。

ドガは、セザンヌがリンゴを食べ物としてではなく質感や量感があるモチーフとしてのみ描いたように、踊り子の「肉体」、つまり彼女たちの、骨の組み上げ具合や、筋肉のつき具合や、関節の曲がり具合や、髪の毛のなびき具合を描いたのであって、生身の人間としての踊り子の悲しみや喜びに寄り添ったわけではなかった。

ロートレックは娼婦をよくモチーフにしたが、その理由はドガの場合とはまるで違っていて、彼が観察し、描き出したのは娼婦の肉体の美しさではなく、その先にある心理や生活である。

ロートレックの出自は上流階級であったが、かれは発育不全の下半身を持つ身体障害者で、その容姿ゆえに当たり前の男女交際の舞台に立つことできず、いつしか、実家の有り余る金銭に物を言わせて、女性との交渉をカネで買う、娼家に入り浸るようになった。

彼は、その場所で目にした女性たちの生態を数多く描いた。彼には、商業デザイナーやイラストレーターとも称すべき一面もあったが、これらは彼にとっていわば余技であって、自分が強く惹かれる作品は、その方面にはない。

娼婦と芸術というと、例えば、新約聖書に登場する「マグダラのマリア」のような、俗性から聖性へのサブリメーションが想起されやすいが、ロートレックが意識的にせよ、無意識にせよ、描き出したのは、そのようなヒロイックな偶像あるいは、ドラマチックな物語ではない。

彼は、売春に身をやつし心を荒ませながらも、なお人間として生きつづけることを止めない彼女たちの姿に、その容姿ゆえに周囲から貶められても、なお生きなければならない自分自身を投影していたのである。

ドガの「踊り子」はどういう意味においても作者の自画像ではないが、ロートレックの娼婦の絵はまごうことなき彼の自画像そのものであった。絵を描くことによってさえ癒されなかった巨大な苦悩の結晶体、それが彼の作品なのである。