硬くて狭いものではなく、柔らかくて広いもの

 子供の学校での友達関係の話を聴き、いつの時代も、学校での人間関係というのは厄介だな、と思った。

自分は、学校時代を通して、幸い、いじめのターゲットになったことはなかったが、休み時間や放課後、部活動での人間関係に、日々神経をとがらせ、疲弊していた色濃い記憶がある。

多くの大人は、子供時代に還りたい、というようなことを口にするが、子供時代に戻るということは、あの頃のひりひりするような心理状態が甦ることでもあるだとすれば、想像するだけでもう勘弁、という気分になる。

大人のオフィシャルな人間関係は、おもに、仕事の内容や職場での役割などの「機能」を媒介として構成されるので、子供時代ほどの、政治的な駆け引きや権力的な闘争の苛烈さは薄められている。もっとも、大人になっても、そういう居場所を好んで選んでいる人は少なからずいるだろうけど。

自分のこれまでを振り返ってみると、子供時分や青春時代が心境的には最も辛く、壮年になって少し楽になり、中年になってさらに楽になるなど、歳をとるに従って荷が下りていったような実感がある。

ただ、この個人的ななりゆきを、若いうちに苦労したから歳をとってから楽ができている、などと一般化するつもりはない。若いころの幸せの貯えが歳をとってからものをいうこともあるし、

さらにいえば、老年時代の人間関係は、働いていた時に自動的に与えられていた役割や機能がリセットされる分、子供時代のような無秩序な権力闘争や縄張り争いの中に、再び放り込まれる可能性が高いと考えている。

老年時代と子供時代が違うのは、長年の人生経験で身に着けた(はずの)気遣いや、分別がありそうなところだが、見聞きする諸先輩方のふるまいを見ていると、これはあまり期待しない方がよいかもしれない。

いずれにせよ、人間が社会で生きるのを真にラクにするのは、政治権力や縄張りではなく、仕事のような果たすべき役割や機能だろう、とは思う。

ただし、これは「現役時代」のような、特定の部分で起動し続ける「歯車」のような硬くて狭いものではなく、もっと柔らかくて広いものであるべきだ、という気もしている。