ヨハネス・フェルメール 「牛乳を注ぐ女」

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 何度も「しまった!」という思いを繰り返しながら描いた。筆で直接描いていくと運筆のずれもあるし、効果の勘違いも多い。けれども、一度描いたら直しようもないので(誤魔化しようはあるが、たいてい傷口を拡げるだけのオチになる)、そのまま我慢して描き続ける。

 下描きなしで線を引くのはリスキーだが、それを超えるリターンもある。線が生きている(自分でいうのもおこがましいが)し、何より、決して取り返しがつかない「一期一会」感、ひらたくいえばライブ感が愉しいのである。

 走るのが得意な人に走る悦びがあるように、絵を描くことにも固有の悦びがあり、それは、鑑賞もせず筆もとらない縁なき衆生にはなんとも説明のしようがないものだ。

 それにしても、こんな夜中に、百円ショップで買ったスケッチブックと、香典用の薄墨の筆ペンだけを画材にして、後悔したり、喜んだり、絵を描くとはなんと安上りな趣味であることか。

 さて、フェルメールである。この人には贋作が多いとされるが、贋作でも本物と見紛うばかりの出来栄えだったら真作と評価を並べてもいいと思うし、この人の手になる真作だって失敗作だったらそれなりの扱いをするべきだろう。

 例えば、ウサイン・ボルトのニセモノがボルトと同じタイムで百メートルを走ったら、その人がニセモノであることなどどうでもよくなるだろうし、本物のボルトがどうも調子が出ずに凡百のタイムでしか走れなかったとしたら、いかな偉大な選手でも、表彰台に上げてもらえない。原理的には同じことである。

 どういう由来があるのか知らないが、世にこの人の真作だと認定されている作品の中にも、自分には怪しく見えるものが結構ある。

 勝手なことをいうようだが、そう見えるのだから仕方がない。その「真贋」の基準は単純で、この「牛乳を注ぐ女」や「真珠の耳飾りの少女」のような正真正銘フェルメール作品にしか起きえない「驚嘆」が、その作品を前に自分の心の中で起きるかどうかれだけである。それが起きなければ、世間がどう評価していようが、自分的にはそれまでである。

 ただ、後期のフェルメール作品は、作者自身が、過去の自分自身の中に確かにあり、今は失われた超絶的な画力にノスタルジーを感じ、なんとかそれを再現できないかとあがいた、その苦闘の所産なのかもしれない。もし実際にそうだとすれば、失敗作とみなしてかえりみずにいるには惜しい、人間フェルメールの刻印がきっとあるのだろうから、それはそれで「深い」作品なのかもしれない。