エドガー・ドガ「踊り子」

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 単にデッサンの正確さを比べるならば、小磯良平の方がドガより上のような気がするが、ドガのドローイングには、小磯良平にはない魅力がある。端的に言って、それは線への執着と手業の冴えだと思う。ドガの線には、東洋の水墨画的な、浮世絵の名人彫師のような、一発で勝負を決める精密な瞬発力のようなものがある。これは小磯良平はもとより、他に真似手が見当たらない格別のもののように思う。

  ロートレックドガを尊敬していたが、ロートレックの絵画は人物の内面に指向しているもので、ドガのようなものの外形を線で捉えることへの、ひたすらな粘着質は、やや薄いように思う。ドガの物体のアウトラインの美しさへ向けた強靭な関心は、人体に限ったものではなく、そのフォーカスは、例えば競走馬にまでも向かっている。

 なお、自分は馬を描いたことはないし、描く気にはならない。自分は自分なりに、顔を含めた人体に造形美の至高を観ている。しかしそれは、恐らくドガのような純度の高さはなく、ロートレック的な内面への関心が少なからず作用しているような気がする。

 しかし、人間が、他の人間に対してその中でうごめく心理抜きで純粋に肉体だけに関心を寄せることなどあり得るのか、という疑いも一方では自分は持っている。となると、ドガは人間のどのような内面に関心を持っていたのか、という話になる。 

 ドガのモチーフは、ダンサーはもとより、酒場でのお互いそっぽを向いた不興気な男女や、大あくびをする洗濯女や、浴室で女性の所作など多岐にわたっているが、そこに通底するものはひとまず「無防備」だと仮定できると思う。そして人間がもっとも無防備になりやすいのが、他人の視線から逃れ得た、たった独りの時間だとすれば、ドガが鋭い関心を向けていたのは、社会から切り離されたときの、あるいは解き放たれたときの一個の人間の「孤独」と言い換えることができるかもしれない。

 ただし、ここでいう孤独は、ありふれた文学的感傷とは別種のもので、社会という他者の群れとの関係性から距離を置いたときの人間が、素の「動物」に戻った瞬間を意味する。ドガはその素の姿に心と体をひっくるめた人間の本質を観ており、その洞察を線に託したと考えられる。