情報と思考

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                     エドワード・ウェストン「ヌード」

 

 上の絵と下の内容はまったく関係がないのだが、それはさておき・・。

 

 先日参加したあるセミナーで、石川善樹氏の「考えるとは何か」というタイトルの講演を聞く機会があった。この人が登壇した時、どこかで見たことがあると思ったが、どこで見たのかは思い出せず、あとで検索したところ、数年前にNHKの深夜の報道番組「NEWS WEB」に時々出演していた人だった。

筑波大付属駒場高校から東京大学医学部、さらにハーバード大学に進んだという日本人の最上級のエリートコースを歩んだ人だが、話を聞いた印象では、こういった人が陥りがちな、情報の非対称性を盾と矛にして、素人相手にはったりをかますようなところがなく、かといって妙な謙遜の嫌みもなく、キャラクター的にもほどよい傲岸さがあり、話もおもしろかった。

彼によると、「考える」とは「情報」と「価値」を結びつける役割を果たすことで、つまり価値を生み出すにはまず絶対的に情報の量が必要で、また、「考える」ことは価値を生み出す手段である、という位置づけであった。

情報はただテキストとして保存しているだけでは価値は無く、「考える」という一手間を加えることで、初めて価値になるという、言われてみれば当たり前のことだが、こういった「言われてみれば当たり前」のことに気づくのが結構難しいことがある。

たいていの人は、情報は情報として抱えているだけでなんとなく価値があるように思いこんでいたり、人間の思考力は覚えている知識量とはあまり関係がないとも思っている。

しかし、薪は薪として倉庫に起きっぱなしでは熱量という価値を生み出すことはないし、逆に、炎熱は薪という素材なくして存続し続けることはできない。そして、この「薪(情報)」と「熱(価値)」を結びつけるのが、「薪を暖炉に放り込む」という行為で、これが「考える」に当たる。

一説には「かんがえる」の語原は「か・向かえる」で、「何と向き合う」という意味らしい。人間が考えるときに向き合っているものが「情報」である。「情報」にはジャーナリスティックな語感があるが、ようするに「記憶」の謂いであり、つづめて言えば、記憶を「思い出す」ことが、すなわち考えることにほぼ近い。

たとえばある異性に片思いをしていて、どうアプローチしようかと「考える」とき、その人は異性のことを頭の中で思い描いている。この想い描いている状態そのものが、「考え」ている状態であり、その記憶への向き合い方が当を得ていれば、その恋愛が成就するという「価値」が生まれる。

情報が豊富だからといって思考力があるとは限らないが、思考力がある人には必ず一定の情報量が備わっている。ただ、よい思考をすには、必ずしも情報が大量である必要ではなく、質のほうがより重要ではあるが。

ただ、「質のよい情報」とは何か、というのは途方もない問題だ。情報の「量」は管理方法に問題がなければ望むだけ貯まっていくが、情報の「質」は、それを活用する時と場所と人と場合などによって、甚だしく上下するからだ。

「情報=記憶」説から少し離れるが、たとえば奈良時代の木簡が出土し、そこに当時の役所の出納に関することが記されていた場合、書かれていること自体は奈良時代当時としてはありふれていることだったろうが、千年以上の時を経た現代において、その木簡に書かれている情報は、歴史学的に、考古学的に、大きな「価値」を持つようになる。

人間個人においても、その人生を根底で支えるのは、大きな業績や実績より、粉雪のようにしんしんと降りつづけ、根雪のように蓄積した日常生活の記憶であろう。人が艱難や岐路に直面し立ち止まり、考え込むとき、翻って向き合うべきなのは、この巨大な自らの記憶の堆積である。

この記憶の堆積が織りなす地層の紋様は、その人の人生観や価値観をデザインしている。そして、人間の判断力の源流は、そこにしか求められない。

と、石川氏の話はそういう風に展開した・・というわけではなく、以上は自分が彼の話を聞きながら勝手に妄想していたことである。なお、人の話を聴く楽しみは、それをきっかけにして自分自身で勝手に妄想するところにもある。

それはさておき、壇上の石川氏の話がどう展開していったかというと、社会的に情報量が少ない分野ほど個人の自由度が上がるが、情報量が多い分野ほど個人の自由度が下がる、ということだった。

どういうことかというと、情報量の少ない分野とは前例が少ない分野であり、それだけ個人がやりたいようにやれる裁量が広い、つまり自由度が高いということになる。

一方、情報量多い分野とは前例や業績や実績が折り重なっているような分野であり、それだけ個人ができることは限られている、つまり自由度が低い、ということである。

たとえば、「日本の財政赤字」や「少子高齢化」といった社会問題については、高い知力を持ちかつ機微な情報へのアクセス力もある人々が、考えに考え抜いてきたテーマであって、そこに新たな知見や見識をプラスするには、それまでの議論を踏襲する労力を払う必要があり、今更半可通が付け焼き刃で論じても功も薄い。これが「情報量はあるが自由度が低い」という意味である。

では、「前例が無く、情報が無く、自由度が高い」分野とはいったいなんだろうか。これが判れば世話がない、といってしまえば話は終わってしまうが、世に「イノベーション」と称される人類史的業績は、すべてこの分野から発生していることは間違いない。

たとえば電信や、電球、パーソナルコンピュータなどは、複数の人たちが世界中の人があちこちで同時多発的に開発競争をしていたのではなく、一人の人間が、自分の頭の中にあるイメージの具現化を希求して専心的努力を継続した結果なのである。そしてこれらの発明をした「イノベーター」たちにとって思考の道具あるいは素材としての情報は、「量」はもとより少ないのだから、理の当然としてその「質」がより問われることになる。

スティーブ・ジョブスのパーソナルコンピュータのイメージを具現化したのはウォズアニックというエンジニアだが、彼は数学の知識とコンピュータ科学に関する知見があった。彼はその情報を「薪」にして思考を燃え上がらせ、パーソナルコンピュータという「価値」を創造し歴史に名を残したのである。

大きな価値を生むには、「情報」と「思考」の両輪が必要なのだが、その両輪を走らせるには「情熱」卑俗な表現をすれば「やる気」という得体の知れないものが、さらに必要になっていくる。

世に「情熱をもて」とか「情熱が足らない」とかよく言われているが、人間はのべつまくなし情熱を抱えて生きているわけではなく、情熱ひとつもつにも条件付けがいるしそれを滔々と論じても仕方がない(それこそ、その周辺について考えに考え抜いた人が世間には山ほどいる)が、情熱がある種の「快感」であることは疑いのないところだろう。

ようするに、人間は、情報をいじくり回してあーだこーだと考えるのが楽しくて、気持ちがいいから考えるのである。冴えた頭でものを考えるのは人間の最上の娯楽である。

人間は、机の前でも考えるし、便座の上でも考えるし、甲子園のマウンドの上でも考える。なぜ考えるのか、楽しいからである。

・・とまた石川氏の話から脱線したが、彼が次に何をしゃべったかというと、情報量と「視界」の因果関係である。ビジネスの目的には「事業(自分の利益)・企業(会社の利益)・産業(業界の利益)」の三段階があって、どの位置で仕事を行うかによってフトコロに入ってくる情報量が違ってくるのだという。

これは一般社員から管理職・役員・経営者さらには業界団体の長という風にステータスが上がっていくことによって情報の非対称性、情報格差が生じていくという意味もさることながら、意識としてどの視座で仕事に取り組むかで、一人の人間の視界が広がっていき、自然と流れ込んでくる情報も違ってくるという意味のようだった。

つまり、たとえ新入社員でも、経営者の視座で自分の仕事を眺めれば、得られる情報の質と量は変わっていき、情報の質と量が変われば、思考の精度も産み出す創造性も変わってくる、ということだ。

これは理屈としてわかりやすいし、実際に正しいとも思うが、山登りでも実際にその高み登って見下ろしてみないと視界の風景は体感できないように、このあたりは「意識」や「心がけ」だけではいかんとも越えられないハードルがあるようにも思われる。

最後に石川氏は電気自動車メーカー「テスラ」の経営者であるイーロン・マスクについて以下のように語った。

マスク氏の場合、その視界は「産業の利益」を飛び越えて「人類の幸福」にあるのだという。彼は人類が幸福になるための手段として「火星に移住する」ことが必要だと考えており(人類の幸福と火星への移住がなんの関係があるのかは不明)、そのためには宇宙航空の産業全体のコストを下げる必要を説き、そのためには繰り返し使える宇宙ロケットの開発が必要で、そのイノベーショに取り組んでいるのだという。

ドラッカーは、「収益をあげることは、企業の目的ではなく、存続のための条件にすぎない」と述べているが、今やマスクにとっては、主力事業である電気自動車による収益は「人類の幸福を実現する」という目的達成のための条件という位置づけになっているのかもしれない。

とにかく、この「事業」も「企業」も「業界」も、さらに「地球」すらも超えた、「宇宙」という視座を得たことによって、いまマスク氏のもとには世界中からありとあらゆる情報が流れ込んでいることだろうし、それが彼の次の思考の糧になっているであろう。これがこれからどうなるのか知らないが、とにかく現象としてはそうであるに違いない。