単純な感情と、複雑な言葉

「人間の思考は『これ以上登ることができない』という頂上に来たとき、ほとんど意味を失うごとく震えている。その頂上の『意味喪失の震え』を感じることが出来ない言葉は、自分にはもはや読むには耐えない」ということを、小林秀雄が言っている。

意味を失ってしまったら、『言葉』ではななくそれはもはや『悲鳴』のようなものだが、もとをたどれば言葉はきっと悲鳴のようなものから生まれたに違いないし、原初のエリアでは言葉は悲鳴とぴったりと重なり合う筋合いのものだったような気がする。

今に至って、言葉は縦横無尽に自己増殖し派生しそれぞれの言葉の概念体系は複雑怪奇な様相を呈しているが、何十万年時間の川を逆流したどりつく一滴のしずく「人間の原初の感情」なぞというものは、それを舌でぺろりと舐めれば、きっと「喜怒哀楽」の四つに収斂される拍子抜けするほどの単純率直な味なんだろうし、よしんばそれが巨大な怪物の体をなしていても、目をつぶって蛮勇を奮えば、「快・不快」で一刀両断できる見かけ倒しなものなのかもしれない。

生まれたての子供がもよおす『泣き・笑い』、人間の感情表現なんて、本来このふたつがあれば事足りる性質のものなんじゃないか。『顔で笑って心で泣く』『顔で怒って心で笑う』・・・我々は、なんて度し難いややこしさの中で生活していることか。ややこしさは人間をちっとも幸福になんかしやしないのに。

『感情があるからそれを表現する言葉が作り上げられた』というよりも、言葉があるからそれを表現している感情の実在を信じやすくなった、という事情の方が現実に適合している気がする。仏像があるから、なんとなく仏様が実在していることを思い込みやすいように。墓があるから、故人の残り香が心をやすらかにしてくれるように。

言葉は自己増殖するが、感情はそれに吊られて増殖なんてしない。増殖しているかのような景観を呈しているだけだ。『複雑な感情』なんてあり得ない。感情はいつでも単純率直なもので、だからこそ強烈な力があるのだ。