教養の本質は「愉しみ」にある

 百年ぐらい前までは、「教養の高さ」と「知識(記憶している情報)の量」はほぼイコールだったが、現代のような情報の洪水の中では、それをむやみやたらに貯めこんだところで、脳内が情報のゴミ屋敷化するだけだ。現代では知識の価値が相対的に下落しており、それに伴って「教養」という言葉もこれまでとは異質の意味合いを帯びるようになった。

現代においては、教養のある人すなわち知識のある人ではない。知識が全くないのも論外だが、その知識を素材にして如何に思考を愉しみ、どう己の精神の滋養とするかが肝腎である。

知識は精神の内燃機関にくべる薪のような存在に過ぎない。逆に言えば、「内燃機関」が粗末な人において、知識は無用の長物となる。膨大な薪の山もくべる窯が無ければただのクズ山である。

レゴを組み立てる人に楽しみをもたらすのはレゴという部品であるように、物を考える人に愉しみを齎すのは知識という素材である。そして、物を考えることを愉しむための知識は、パソコンや蔵書の中ではなく、めいめいの頭の中に取り込んでおく必要がある。記憶していない知識は、おもちゃ売り場で飾っているレゴのように、自分の愉楽の素材にはならない。

現代において「教養がある人」と呼ぶにふさわしいのは、自己の内に貯えた知識のカオスの化学反応を愉しんで飽きない人である。ちなみに、大量の知識を抱えてそれを無知な人に向かってわかりやすく教える人は優れたティーチングシステムであろうが、それだけでは教養があることにはならない。

教養の有無は「愉しみ」の有無に拠る。膨大な知識があってもそれを愉しんでいなければ教養があることにはならないし、少ない知識でもそれを愉しんでいれば教養があることになる。自分はそう考えている。

情報の吸収と保持能力では人間は到底歯が立たないコンピュータと、人間の頭脳のもっとも本質的な違いは「愉しみを味わう力」にある。知識と対峙するときに、それを自分は自家薬籠中の物にしているかどうか、そして、それを「愉しんでいるかどうか」は極めて重要なのである。