空想的マッチョイムズ

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 戦時中アメリカには京都に原爆を落とす計画があったが、占領後の日本人の国民感情を考えて思いとどまった。日本にも原爆を製造するプロジェクトがあり、もしそれが成就し、太平洋を渡れる爆撃機があったら、確実にワシントンに原爆を落としたことだろう。戦争とはそういうものだ。

近代以後、国家間の戦争は、国力(軍事力・政治力・経済力・知力)を傾けつくした全面戦争になるので、核保有国は劣勢が極まれば「亡国」がリアルな像として結像するようになり、勢い核兵器を使うことになる。その確実な前提が「抑止力」になり、現代では大国同士が正面衝突する戦争は起こりえない。(指導者が常識的な判断力を有していれば、だが)

現代においてもっとも起こりやすい戦闘の形態は、大国をバックにした小国同士の代理戦争(かつての朝鮮戦争ベトナム戦争のような)か、大国への小国によるテロリズムである。日本が真に備えるべきものは後者であり、その時局において1機100億円の戦闘機や空母やイージス艦など何の役にも立たない。

今日の日本の国防は、本来あるべきプラグマティズムからほど遠く、「空想的マッチョイムズ」とでも呼ぶべき性質のものだ。実はこれは日本の軍事思想の、ある意味悪しき伝統でもある。

例えば「日本刀信仰」というものがそれで、戦国時代から江戸時代における実際の戦闘は鉄砲や大砲が幅を利かせるまでは槍による叩き合いで、日本刀は敵の首を刈り取るぐらいしか使い道が無かった。しかしこの実戦では物の役に立たない日本刀は、当時の軍人(武士)の精神的象徴として君臨した。

一対一の決闘ならまだしも、日本刀は名刀だろうが軍刀だろうが、数合で刃こぼれし、すぐにモノの役に立たなくなる。刃こぼれした後の刀は単なる「重たい鉄の棒」と化し、その機動性において木刀にはるかに劣る。しかしその「役に立たないもの」が防衛思想の象徴になる奇観は、現代へ引き継がれている。

世に数多の職能あれども、国家の軍事指導者ほどプラグマティズムの徹底が求められる地位はないだろう。しかし軍事には、常に「空想的マッチョイムズ」の罠が待ち受けており、古今東西の多くの優れた軍事指導者がその罠にはまってきたし、凡将なら、猶更のことである。

戦闘行為には、我が身を損なう危険性に拠る恐怖心がつきまとうから、それを克服するためには勇猛心や闘争心といった「精神的なもの」を奮い起こすことが、常に必要視されてきた。

「空想的マッチョイムズ」はこの「精神的なもの」が、現実や事実から遊離したときに発生するものだとすれば、「現実や事実から目を逸らさない意識」が必要になるだろう。しかし、ここにこそ精緻な認知力と旺盛な「勇気」が必要になるというパラドックスを人間は乗り越えることができるのだろうか。

もしそれが「生身の人間には無理だ」ということになれば、ここでも人工知能にお出ましいただくより他はあるまい。