獣性と洗練性

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W杯ラグビー 準々決勝で日本3対26で南アフリカに敗北


 会田雄次は 「アーロン収容所」の中で「イギリス兵は、貴族階級と労働者階級では体のでかさからして 違うからはっきり判る」と述べていて、貴族階級のスポーツであるラグビーの試合を見るたびに、自分はその言葉を思い出す。

イギリスという国は、「騎士道精神」とか「英国紳士」とかといった洗練されたモラルを標榜する一方で、世界中の未開地を武力と経済力で蹂躙してきた二面性を持つ。

ラグビーは、その英国の貴族階級(社会支配層 )の二面性、つまり「洗練性」と「野獣性」が、色濃く出ているスポーツだと思う。

例えば、モールやラックといった審判や観客の目につきにくい集団戦の中では相当あくどいラフプレーをするが、誰の目にもつく試合後は、お互いのフェアプレーを讃え合うという「お行儀の良さ」を演出する、というところがそれに当たる。

しかし、もう一歩考えを進めてみれば、こういった「獣性」と「洗練性」は、一人の人間においても、社会集団においても、どちらが欠けても存立が危うくなる、多かれ少なかれ必要不可欠なものではある。何もイギリスの貴族階級独自の特性ではない。

「獣性」は、ケインズが説いたような経済活動のダイナモである「アニマル・スピリット」の原資でもあり、その担い手である人口を増やすために必要不可欠な性欲でもある。

「洗練性」は社会活動における護るべきルールを創り、それを自律的に遵守する精神につながり、このあたりの機微を、マックス・ウェバーは「プロテスタンティズムズムと資本主義の精神」で説いている。

いま、日本を含む世界中が、軍事的、政治的、経済的な「獣性」を剥き出しにして、「洗練性」をなおざりにしている。それはひたすら「獣性」だけをを剥き出しにしている指導者を支持している、一般市民の「洗練性」軽視の顕れでもある。

どこまでも「動物(アニマル)」である人間にとって、獣性は万古不易な普遍性を持つものだが、「洗練性」には地道でか細い歴史の積み上げが要る。いま、世界中の指導者とそれを支持する一般市民が、こぞって壊し続けている「洗練性」が、息を吹き返すときは来るのだろうか。もはや古い人間に属している自分には、そのことについては悲観的なイメージしかわいてこない。