経済の正気、政治の狂気

日本は「戦争をできる国」にはなれない
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150309-00062639-toyo-

これはたぶんちがう。いざとなったら「それはそれ。これはこれ」で突っ走るだろう。「信念の政治家」安倍晋三を甘く見てはいけない。

人間や社会は経済的合理性のみで動くと観ずる思想的立場を唯物史観といい、その誤謬性が明らかになった今においても、日本が借金まみれであることが戦争抑止になると無邪気に信じることができる根拠はなんだろう。政治の狂気とは常に「割に合わない」ことをしでかすものだ。

かつての日本が、中国を侵略したり、米英と戦争したりすることおいて、「経済的合理性」など一顧だにされなかった。そんなことを言う人間は、合理主義の仮面をかぶった「腰抜け」であり、「日本男児」の風上にもおけぬ「非国民」とされたのだ。時代の空気とは、その恐ろしさとは、そういうものなのだ。

戦争はつまるところ人間の政治的感情が起こすもので、そこに経済状態をはじめとする合理的判断が忍び込む余地は極めて狭い。国家行動において、政治は経済を常に超越する。それは経済で密接な結びつきがあったはずのヨーロッパ諸国間で、二度の大戦乱が起こったという歴史的事実が十分に証明している。

人間や社会や国家において、怨みだの、つらみだの、妬みだのといった、大きな感情のうねりが出来たら最後、いかな経済的合理性でもそれを抑止することはできない。自己の生存の基盤であり扶養者である「親」を殺す中高生は、その行動において経済的合理性など一顧だにしない。それと同断である。

かって石橋湛山は、経済的合理性という冷徹なソロバン勘定から満州国放棄と対米不戦を説いた。これは現在の視座から観れば信じがたいほどの卓見だが、この天才的ビジョンを受け容れる政治的・心理的土壌は当時の日本には皆無だった。

当時の日本人は、中国人や朝鮮人は東洋的停滞に甘んずる一段劣った未開人であり、欧米人はどんな機械文明をふりかざそうが所詮は南夷北狄の野蛮人であり、一方日本は神州不滅、その軍隊は絶対不敗の皇軍であるという、どれもこれも何一つ合理的根拠がない迷信だけを頼りに国家運営を行っていた。

「戦前の日本人はたしかに合理的な思考をすることはできませんでしたが、今の日本人はちゃんと合理的に物事を考えて、経済的に利口に立ち回ることができます」というのであれば、その根拠はいったいどこにあるのか。自分には、今も昔も我々の本質はたいして変わっていないと思えるのだが