孤独が産み出すもの

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樹木のある風景

 夏目漱石の書いた文書を読んでいると、彼は時代を象徴する作家であったとともに、時代から隔絶された孤独な人間であったことを感じる。孤独であることと、時代を象徴することは、一見矛盾するようだが、その時代において(外貌はどうあろうと)孤独であることは、時代を象徴する存在たりえる要件のひとつだと思う。

以前「どっきりカメラ」というテレビ番組があった。一般人やタレントを周囲がこぞって罠にはめてその狼狽を鑑賞し、最後は種明かしをして笑うという、たちの悪いものだったが、こういった「圧力が炙り出す人間の本然の姿」の面白さに抗えなかったのか、人気があり長く続いた番組だった。

「どっきりカメラ」では、最後に「”どっきり”でした」という種明かしがあり、「罠」から解放されたターゲットは、ホッとしたり、怒ったりといったかたちで、精神の均衡を取り戻すが、現実世界では、「周囲は自由なのに、自分一人が罠にはまっている」状態であり続けることがしばしば起こる。逆に、「周囲はすべて罠にはまっているが、自分一人がはまっていない」という状況もあり得る。

この両者は一見逆の現象のようだが、「”世間並み”から隔離され、孤独へ追い込まれている」という点では、じつは通底している。

周囲が誤謬と悪徳にまみれ自分の側に真理や正義があろうが、周囲はすべて迷妄と虚偽に満ち自分だけが真実を掴み事実を知っていようが、ひとたび孤独に追い込まれれば、人間はその状況に長く耐えられないように設計されている。

これは人間の心の弱さというよりも、孤独では生きていけない「社会的生物」である人間の生存戦略、あるいは機能と見た方がいいと思う。

「千万人と雖も吾往かん」というポリシーが支持されるのは、「千万人いれども我ゆかん千万人と雖も吾往かん」というポリシーを支持する人が「千万人」いればこそである。良い意味でも悪い意味でも、人間は常に孤独を避け、仲間を求める。

ただ、今がどんなに順境でも、どんなに真っ当な人生を歩んでいても、順境であることそれ自体が、真っ当であることそれ自体が、孤独に陥る罠に自らを導くことがある。人間の意思はその状況の変化に抗することはできず、ただ黙ってそれに対峙することしかできない。

しかし、そういった「孤独」があってこそ人間は真剣に人生を考えるのだし、すぐれた哲理や文学は、そこからしか生まれ得ないのが相場である。

そうはいっても、すぐれた哲理や文学を創るために自ら孤独を求められるほど人間は強くないし、不自然でもある。天はまるで狙いでもつけるように、そのポテンシャルがある人間に「孤独」を配分し、苦しみを味わわせ、哲理や文学を創らせる、そうとでも図式化したくなるような現象が思想史にはしばしば起こる。ターゲットは「天」が選ぶ。何も好き好んで、そんな役回りを自分から買って出る必要はない。

孤独を味わっている人が、いま心と体を蹂躙している重圧に押し潰されずに辛うじて生き延びて、表現する手法とモチベーションを得たときに、現代を象徴する、歴史に残る哲学や文学作品が出来上がるのだろう。