アフター・コロナ

 新型コロナウイルスは百年前なら武漢の風土病で終わっていたはずで、そうはならずにこれほど世界に蔓延したのは経済活動のグローバル化に主因があるが、その結果、国々や地域や個々人の活動が細かく分断され、高いバリアーが築き上げられていくのは、一種の皮肉である。

従来の見立てでは、共通の敵が現れたとき人類は一致団結して戦うはずだったが、今回に関してはすくなくとも国々は「自国第一主義」で「この際他国や国際社会など知ったことか」という態度をとり続けている。一部に医療品の融通し合いがあるにせよ。

この分だと、宇宙人が大挙して攻めてきても「地球防衛軍」なるものは結成されず、国や地域や個人は安全な場所や条件を奪い合って、お互いの足を引っ張り合うに違いない。

暗澹たる思いと深い恐怖心を感じざるを得ない状況だが、こんな中でも一つ「よいこと」があって、それは日本国内において、政府があまりにも頼るに足りないことが明白になってから、県や市などの地方公共団体が独自の対策を打ち出し始めているところだ。

これに似たような状況がかつてあったなあ、と思い出したのは幕末である。「ペリーショック」という突然の国難に際し、盤石に見えた幕府が実は組織疲労を起こした「ウドの大木」(手塚治虫はこれを「陽だまりの樹」と表現した)であることが判り、戦国の世から永らく沈黙を守ってきた諸藩が、一斉に独自行動を採りだした光景である。

幕府の最高権力者である将軍は徳川家の血統で世襲されてきたが、その脆さが危機に際して一気に露呈した風景は、安倍晋三麻生太郎のような浮世離れした生活感覚しか持たない世襲議員が、国家的危機に際して、まるで頼むに足りないことが明らかになっている今の状況にやや似ている。

幕末の動乱は、徳川幕府が滅んだあとそれと比べ物にならない強権的な「中央集権」国家が生まれる成り行きになるが、現代の動乱は、逆に「地方分権」国家形成の契機になればよいと個人的には思っている。

もう一つケガの功名ならぬ「コロナの果実」が生まれ得るとすれば、日本が、輸出入に偏重した「貿易立国」ではない、自国の中で経済を回す比率が高い内需型国家に生まれ変わることである。もちろん農民が八割を超えていた江戸時代の鎖国に戻るわけにはいかないのではあるが。

少なくとも、工場や農場、つまり第一次・第二次産業の拠点が国内に増え、最悪国交が遮断し、輸出入が目詰まりになっても、数年は自国内で引きこもれるだけのポテンシャルを持つ国に生まれ変わることはできないだろうか。

つまり、国内は地方分権化が進み、国家的にはその活発な切磋琢磨や交流によって経済(生産や流通)が回っている国である。その特、自分はどう生きていくのか皆目見当がつかないが、自分の都合を切り離して考えてみると、それが国として望ましい状態のような気がする。

日本が東京や大阪を盟主とする地方分権国家になり、「国」は貨幣の発行や軍事などの最低限の役割のみを担う単なる一機関まで機能を縮小すれば良いのではないか。国会議員には交通整理の巡査並みの役割と権限を渡せば済むだろう。

ワクチンや特効薬がすぐにでも開発されれば別だが、このままの状態が続くと、社会は、国は、世界は、いずれ根底から構造を変えることになる。

弱者は溶けるようにいなくなり、強者は既得権益を引きはがされ、そして同じように溶けていく。なぜなら、「強者」が享受している物質や条件は、すべて「弱者」の確固たる存在が下支えしているからである。強者がふんぞり返っている椅子は、弱者という「足」を失えば、崩れおちる他はない。

遅い早いの違いはあるが、おそらく、長い目で見てコロナ禍に「勝者」はいない。「最悪の事態」は底なしの悲惨さで想像しうるが、人類は、日本人は、自分は、それに備えなくてはならない。じつは備えてもどうなるものでもないのだか。

こんなことを書きながら、自分はまだこの現実をうまく受け入れられていない。本当に、これは現実なのだろうか。