学校プール水ダダ漏れ事件で「組織と個人」を考える

まずは、事件の顛末。

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千葉市中央区の市立小学校が昨年夏、プールの給水口の栓を閉め忘れ、水を大量に流失させるミスを起こした問題で、市教委は22日、県水道局から請求された水道料金約438万円を該当校の男性校長、男性教頭、ミスをした20代の男性教諭の3人が弁済したと発表した。(2016年2月23日)
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「善意有過失」めいた話だが、仕事上のミスを個人が弁済するのは異常。この理屈がまかり通れば、仕事の利益を個人が横領してもいいことになる。

そもそも18日間も水が異常に消費されているのを気づかなった、あるいは傍観していた水道局はどうなんだろう。こっちこそが業務上の過失ではないのか。

これは「水をダダ漏れさせ、税金を無駄遣いしたのだから、責任者に弁償させました」という一種の見せしめ、あるいはパフォーマンスだが、世間の糾弾を過度に恐れたたんなる感情的反射を出ない。

組織の一員として機能していた人間の仕事上の過誤を個人で弁済させる流れは、東電や東芝のケースでも見られるが、「組織が動かすお金」と「個人が所有するお金」のスケール感は到底つり合わず、そういうトレンドに妥当性があるとは思えない。

数億円、数千億円のカネを動かす商社マンや銀行のトレーダーが、動かすカネとつり合わないサラリーに文句も言わず働いているのは、過誤によって損失を生じさせたときでも個人的には免責されるというバーターがあればこそだ。

この法人(組織)と個人における暗黙の約束事が崩壊すれば、個人は組織の中で働くよすがを失い、いずれ組織の存立を蝕むことだろう。「そりゃいい気味だ」と思う人もいるだろうが、長い目で見れば、その崩壊がおよぼず社会的害毒はいずれそういった人々へも及ぶであろう。

フリーという職業的立場は、総じて、組織からの、あるいは組織の中で仕事をする人々からの発注や依頼がなければ成り立たないのだから。