権利と権力

 人間が他者や社会と健全なコミュニケーションをするには、適度な権力(自分の意思通りに他人を動かす力)を持つ必要がある。それが過少でも、過大でも、精神の均衡は崩れる。

権力を過大に持つことの陥穽は歴史上多くの実例があるから論ずるには及ばないが、権力が過少であることの弊害は、もっとシリアスに論じられてもいいテーマだと思う。

言葉の定義にもよるが、自分は「権利」と「権力」とは似て否なるものだ、と考えている。「権利」には行使できる範囲がかなり明確に決められているが、「権力」はその範囲が有るようで無いし、無いようで有る。そのあいまいさから、時に不当に奪われたり、時に青天井に与えられたりする。

「権利」と「権力」の関係によく似ているのが、「ドメイン」と「ミッション」の関係である。ドメインは割り振られた「業務範囲」だが、ミッションは与えらえた「使命」だ。前者は多すぎても少なすぎても不可だが、後者は担当者のモチベーションによって仕事量がいちじるしく増減する。

たとえば、フランシスコ=ザビエルにイエズス会(あるいは”神”)から与えられたのは、「アジアで神の教えを広めること」というミッションであり、「日本人のカトリック信者を10万人獲得する」というドメインではない。

そして、あいまいなミッションだけを与えられ、「数値目標」や「布教エリア」という明確なドメインを持たなかったザビエルはそれに甘えて手を抜いたかというと、勿論さにあらず、抽象的なミッションだけがあったからこそ、ザビエルの努力は青天井に、命がけになったのである。

「人間には(適度な)権力が必要である」というテーゼにも、それが「権利」のように明確な規定や行使範囲が決められていないからこそ意味がある。「自分は(ある程度)世の中においてわがままにふるまっていいのだ」という自己を許容する力は、そのままその人の「生きる力」とイコールである。

「わがままにふるまってもいい」という権力意識が乏しいと、自分の中にある根源的な本音を抑圧することにつながり、ひいては破壊的・反社会的な欲動として顕在化しかねない。いうなれば、これは「わがまま」の最悪の露出形である。(この小規模な露出の例が、レストランやタクシーなどで客の立場になった時の極端に横柄な態度である。)

親や教師や上司など、社会においてある種の権力を握っている側は、その「配下」の立場に対して、いかに「ドメイン」ではなく「ミッション」を、「権利」ではなく「権力」をうまく与えるかが重要である。それは、子供や、生徒や、部下の精神の活力や取組みへの意欲に決定的な影響がある。


              ※

上記は、子供の「わがまま」をどの程度許すのがよいのか、という自分の問題意識から敷衍して考えたものである。

もちろん、傍若無人な子供は論外だが、自分の意思を表出して他人を動かすすべとそれを支える十分な気力をもつ人間に育てるのは親のつとめのひとつであり、そのために親はどうふるまったらいいのだろうか。これはかなり難しい問いであると思う。

一つの答えとしては、そもそも、個人のそういった社会的能力は、親による垂直関係からの教化ではなく、友人どうしのような水平関係における交流や摩擦、ときによっては軋轢ではぐくまれるものであり、そういう機会を子供に提供するのが親の役目である、と言えるかもしれない。