「受験票に答えがあった」事件から試験の公平性を考える。

まずは事件の顛末から。
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山口大学が実施した一般入試の国語の設問で、受験票を見れば答えがわかってしまうものがあり、同大はこの設問について受験生全員を正解扱いにすることを決めた。設問は、「ケイタイ電話」のカタカナ部分を漢字になおすというものだったが、受験票裏の注意事項に「携帯電話」の表記があったという。同大は受験生全員を正解とした。(2016年2月26日朝日新聞
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「そういえば、受験票の裏に答えがあったなあ」と思い出す能力や、「きっと受験票の注意書きに書いてあるはず」と連想する能力ぐるみで評価してもよかったんじゃないだろうか・・とは半分冗談だが、実際のところ、こういう能力こそが、教育の究極の目的の一つである「生き延びる力」の本質だと思う。

いっそのこと「何を持ち込んでもよろしい」ということにすれば、究極の公平性になるのではないだろうか。実際、人生や仕事の課題を解決するには、「何を参照してもよい」のだから。それに「何を持ち込むか」にその人の知力(判断力や情報量など)すでに現れることだろう。 

情報が頭に入っておらず、いちいち何かを参照しなければ答えが見つからないような頭では、いざというときにはモノの役に立たないということも社会の共通認識になるだろうし、何かを参照すれば解けるようなレベルの問題を、試験から駆逐するいい機会にもなるだろう。