「本の福袋サービス」について考える

 多くの人間を浅く知るより、少ない人間を深く知った方が、「人間」を知ることの近道になることがある。読書というのもおそらく同じ事情で、多くの本を手当たり次第に読みあさることより、深い内容と上質の表現を備えた少量の本を繰り返し味わう方が有益な読書経験になることがある。

ただ、世の中には数十億人の人間がおり、それ以上の本がある。その中から「深い内容と上質の表現を備えた本」に出会うのは容易ではない。そのようなニーズを充たす試みとして「1万円で請け負う本のコンシェルジュ」というビジネスモデルは優れている。

これは北海道のある個人書店が始めた、顧客の読書歴や知的嗜好を勘案して1万円の予算範囲で本を見繕い、福袋的なパッケージにして送る通販サービスで、その申し込みが全国から殺到しているのだという。

田舎にあるのに全国から注文が殺到する本屋さん
http://matome.naver.jp/odai/2140893292978353201

このビジネスモデルは、単なる通信販売に「選択」という価値を与えているのだが、ただ、購買歴による関連おすすめ本の提示ならネット上でアマゾンだってやっている。これを生身の人間の「目利き」がアナログで行うには、コンピュータでは逆立ちしてもできない価値を提供する必要がある。

その価値を生むためのキーワードの一つとして、「鉄板を外す」あるいは「裏をかく」ということがあるのではないか。

コンピュータは、大量の具体事例を少数の一般論に収斂させていく帰納的な力技は得意だが、「その人には真に何が必要か」あるいは「何が足らないか」を直感的に察知して具体提案を展開する演繹的能力は(今のところ)弱い。それができるのが生身の「目利き」たちであろう。

簡単にいえば、アマゾンはビジネス本ばかり読んでいる人にはビジネス本を薦めることしかできないが、生身の「目利き」は、ビジネス本ばかり読んでいる人に、歴史書や生物図鑑を薦めることができるのだ。「たまにはこういう本でも読んで視野を広げろよ」と。

けれども、これだってコンピュータでもいずれやって出来ないことはないだろう。しかし人間の真の価値を「年齢・年収・勤務先・趣味嗜好」といった定量的なデータから測る試みに限界点があるのように、本の真価もそのテキスト内容や文字数という定量的側面以上に、その表現の味わいや「書きぶり」という数値計測不能の定性的側面にこそ存するといえる。

ただ、この優れて人間的なビジネスモデルも、実際の運用の段階に視点を移せば、数々の難所が待ち受けているようにも観える。その難所は、いかな目利きコンシェルジュといえども、一人の人間が目を通して内容を感得しうる本の数には自ずと限りがある、というところから生じる。

勢い、斯界での評価が定まった古典的名著や、同じような傾向の(ようにに見えた)顧客には同じパターンの組み合わせを薦めるような安直な成り行きにならないとはいえない。「古典」に通暁した読み手は現代の名誉には不案内だろうし、反対に、リアルタイムの感性を湛えた備えた読み手は「古典」理解に超え難いハードルを感じるであろう。

様々なタイプの「コンシェルジュ」を集めて共同チームを作ればいいともいえようが、そんな人材が世にごろごろしているとも思えないし、相応のコストもかかる。「そうとなればやっぱりコンピュータの出番だね!」なんてことになるかもしれない。

これは、現行の「おすすめ本推薦システム」が進化した究極の姿としてネット上にいずれ出現するべきもので、その端緒を、今北海道で一人の書店主がアナログで手がけ始めた、とも観ることができる。

目端の利いたビジネス開発者ならば、もう北海道に出かけて、このアナログ書店主に対面しつつ彼の脳内構造を把握し、それをデジタル上で再現(デジタルで検索し電子書籍あるいは紙の本で納品)する方途を検討しているかもしれない。

ただ、こんなことも同時に考える。今、このサービスに申し込んでいる人びとは「世界中の本を渉猟して、自分にお薦めの本を探し出して並べて欲しい」とゴウ突く張りに考えているのだろうか。これは、必ずしもそうとは言えないように自分には思える。

彼らが望んでいるのは「あの名物オヤジが薦める本を読んでみたい」という、信頼感と愛着に根ざしたきわめて純粋な好奇心かもしれない。だから「オヤジ」が見逃している本があったとしても、それを責める気も毛頭ないし、見逃していないことを期待する気も皆無なのかもしれない。

つまり、顧客が真から求めているのは、「粗漏のない良書探索網」ではなく、「オヤジ」の本との来歴とそれが醸成した知的滋養の可能性がある。

せんじつめていうと、このビジネスの売り物は「オヤジの個性」ということになる。もしそうであるならば、まさにこれは誰もマネ手がない「オンリー・ワン」ビジネスの典型であり、これほど強健なしくみもないだろう。

自らを窮状から救い、生きる活力を呼び起こす知的な悦びを得るには教養の助力を要する。それを得るためのチャネルは、何も四方八方に張り巡らせる必要はなく、確実なものがほんの少しあればいい。「オヤジ」が顧客にとってその一つになり得れば、それは永遠の「金づる」を掴んだのと同じことである。