戦争を恐れる倜儻不羈

 アメリカという国は、第一次世界大戦で漁夫の利を得て以来、第二次世界大戦では欧州と太平洋の二方面で戦争をし、その後に朝鮮戦争をし、その後にベトナム戦争をし、その後にアフガニスタンで戦い、さらに湾岸戦争イラク戦争、とこの百年間ほぼ年がら年じゅう戦争ばかりしている国だ。

アメリカがなぜこんなに連続に戦争をしうるのかというといろんな政治的経済的あるいは宗教的理由はあるが、もっとも根本的な理由は全ての戦争において自国領土が戦場になったことがなく(真珠湾攻撃を除く)つまり一般国民が戦争に巻き込まれたことが無く故に戦争の悲惨さが真にわかっていないからだ。

日本も日清戦争日露戦争満州事変・日中戦争まで本土が対外戦争の戦場になることがなく非戦闘員が大量に犠牲になることがなかった。だから国民の熱狂的支持のもと大東亜戦争に突入していったのだが、その結果数十か所の空爆と2発の原爆と沖縄地上戦で骨の髄まで戦争の悲惨さを「学習」する破目になった。

本来ならばまるで学習していないアメリカを、たっぷり学習したはずの日本が、「そんなに戦争ばっかりするもんではない」とたしなめる役回りのはずなのに、もはや日本は学習してから70年を経て「学習効果」が薄れてしまったのか、あろうことかアメリカの尻馬にのって世界戦場巡りをしようとしている。

イスラム国が勃興した直接の原因はイラクの国家崩壊で、9.11の怒りにまかせて無茶な因縁をつけてまで戦争を仕掛けたアメリカやイギリスがその後始末に追われるのは因果応報だとしても、日本がその尻馬にのって騒ぐのに何の因果も「国益」もありはしない。

「いや、日本は戦争に負けてアメリカ様の家来になったのだから、宗主様の御意向に沿ったり、言われなくても忖度したりしてご機嫌をとるのはとっても国益に適っているのだ」というのは、現実主義の衣を被った哀れむべき敗戦国根性だろう。こういう心性のどこが「毅然」といえるのか。

日本が採るべき国際的ふるまいは「グレーゾーンでのらりくらりしろ」に尽きると思う。

イスラム国はけしからん」といいつつ、「でも、日本には平和憲法があり手も足も出ないんです」と煙に巻いて実のある軍事支援は何もせず、西側陣営のはしくれとしての経済的利得はちゃっかり享受しながら、中東紛争については峠が洞を決め込むという立ち位置、その実現こそが日本の「国益」だろう。

「そんな時代遅れの憲法なんかさっさと改正してしまえ」と宗主国様に言われたら、「あなたが作って押しつけたんじゃないですか。よくもそんな勝手なことが言えますね」と言い返せばいい。そんな切り札まで自ら進んで「解釈を変更」して骨抜きにしてしまうのだから、お人よしにもほどがある。

日本はアメリカとの戦争に完膚無きまでに負けて国の背骨をへし折られ、戦争の悲惨さを骨の髄まで味わい、そして属国意識を叩き込まれた。戦後70年を経て、戦争の悲惨さは忘れかけているが、属国意識はゆるぎないデフォルトと化している。

戦争の悲惨さの記憶は日本が永遠に手放すべきではない「宝」であり、一方、属国根性は一刻も早く反古にすべき民族的因襲であるのに、現実は、それがちょうど逆さまになっている。

「戦争を恐れない属国根性」ではなく「戦争を恐れる倜儻不羈」でなくてはならないのだろう。それには、たいへんな賢明さと、したたかさが必要になるとしても。