晴天紀行 〜鶴岡八幡宮



JR鎌倉駅



修学旅行なのか、校外学習なのか。中学生と思しき集団でごったがえす小町通り



鶴岡八幡宮。本殿へ至る長大な参道と石段は、東京ビッグサイトを彷彿させるものがある。鶴岡八幡宮ビッグサイトのマネをするわけがないから、東京ビッグサイト鶴岡八幡宮のような歴史上の宗教施設の構造・様式をなぞらえているのだろう。


境内にある演武場、ではなく幼稚園(鶴岡幼稚園)。現役園児が、自分たちが通っている幼稚園の価値を知るには卒園後二十年ぐらい必要かもしれない。


見る人に届くコピーは、たいてい短くそして具体的だ。言葉惹かれて見にいくことにする。


しかし、入園料500円ということで断念。牡丹を観るために500円払う雅量は、まだ自分には無いようだ。


梅が咲いているのを今年初めて観る。


平成22年に強風で根こそぎ倒れた大イチョウの跡地。二代将軍源頼家の次男、公曉が、叔父の三代実朝を斬殺するとき、この大イチョウに隠れていたという伝説がある。奥に見えるのは掘り出され移植された大イチョウで最近新たな芽吹きが見られたという。


国宝館で開催中の「肉筆浮世絵の美」展を観る。展示点数が少なくてよかった。ごちそうと同じで、いくら素晴らしい絵でも沢山だされるとゲンナリしてしまう。都心で催される企画展はそれに人ごみが加わり、観た後は大抵ぐったりする。もっと点数を減らしてその分入場料を安くすればいいと思うが、きっとそうはできない大人の事情があるんだろう。


志望校への合格祈願や安産祈願、もっとラブラブになりたい等、きわめて具体的な願望が明記された絵馬の数々。神仏を「願い事を聞き届けてくれる存在」と位置づけるのは東洋的宗教観の特徴のようだ。

たぶんこれは儒教圏の東洋人が汎神論の宗教観を持っていることに関係がある。たとえA神様が願い事が聞き入れくれなくても、代わりのBCDE神様が控えているのだから、どんどん気楽にご利益を頼めるのだ。

一方、キリスト教イスラム教にとっての神は願いごとを聞き入れていてくれる存在では無い。神は、願いを聞き入れるどころか、信徒を次々とむごい目に遭わせ、人間に「この受難には何か意味があるはず」「どこかに神の思し召しがあるはず」と脳味噌がねじ切れるような苦しい解釈をさせる。

この苦しい解釈の論理的集積が、一神教の神学体系である。こんな苦痛に満ちた仕儀になるのは、最初に神を一つしか規定しなかったからだ。ある意味、初期設定の誤りである

宮本武蔵は五輪ノ書で「神仏は信ずれどもこれを頼まず」と述べているが、これは日本人ばなれした一種の天才的「独創」であって、当時こんな事を考えてた日本人が彼の他にいたとは思えない。これは、キリスト教が要求する処世観(神は自らを助くるものを助く)そのものである。


きょうは生まれて初めて絵馬を奉納する日になった。ご多分にもれず、自分もきわめて具体的な願望を書いた。お頼みします、神様。