「小説 世界が奏でる音楽」 保坂和志 (抜き書き)

小説 世界が奏でる音楽 保坂和志 

 約ひと月かけて、この本を読んだ。この本を読んでいる時間は、まるで寄せては返す波を、砂浜に座り込んで眺めつづけているような時間だった。

同じようなことを繰り返し書いているのだが、その表現がそのたびに違うせいか、読んでいていっこうに飽きがこない不思議な体験だった。

では、この本は結局は何が言いたいのだろうか。それは、「結局は何が言いたいのか、という問いこそが愚劣なのだ」ということだ。

なお、同じように打ち寄せる波も、たまにエビとか貝とかコンブとか漂流物とかを砂浜に打ち上げることがある。以下の断片は、自分が拾ったそのたぐいのものだ、と理解されたい。

(なお、おそらく大量に含まれている誤字脱字はご容赦ください。)

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 批判は知的な行為ではない。批判はこちら側が一つか二つだけの限られた読み方の方法論や流儀を持っていれば簡単にできる。本当に知的な行為というのは、自分がすでに持っている読み方の流儀を捨てていくこと、だから考えるというのは批判をすることではなくて、信じること。そこにかかれていることを真に受けることだ。

スポーツとは具体的な技術の連なりであり、勝負に出るべきところで弱気にならずにちゃんと向かっていく気持ちのあり方であり、「今のプレーには女手ひとつで育ててくれた彼のお母さんの愛情が反映されている」などというコメントの出番はない。

小説家にとって素振り500回とはどういうことなのか。わたしにとってのそれは「小説について考えること」である。文章表現の次元でいくら努力しても意味はない。小説というのは文章の出来をきそうのではなくて、文章によって何が書けるか、つまり、言葉によってどういう風にして世界と触れあうことができるか、を試行錯誤するものだからだ。

神は存在するが、人間は神を見たり聞いたりすることはできない。実際に神を見たり聞いたりすることは、物質的次元での出来事であって、物質的次元である限り、物質的次元で生きている人間たちが作った言語の体系は揺るがない。物質的次元で神と出会わないからこそ、もうひとつの言語の体系が生まれる。しかもそれは、言語の体系の中で閉じることがなく、現実を指し示すことを片時も忘れない。

白川静が残す資料には、それがいくら膨大であっても白川氏の内的経験の残りかすしかない。その資料を正しく活用できる後継者はすぐには現れず、百年とか二百年とか経ったときに、白川静の生まれ変わりのような人が現れたとしたら、その人がはじめて、再び白川静と同じ内的経験を辿りながら資料に命を吹き込むことができるのではないか。

普通小説で一人称が三人称に切り替わるなど「あってはならないこと」のように思われているけれど、実際にそういうことが起きて、それが作品として破綻していないことを経験すると、現にこうして生きている私たちもまたある決めごとによって私という一人称の中にしか生きられないと思いこんでいるだけなのかもしれない、という思いがうまれてくる。

小説家というものはおかしな風に言葉が手足にからまっているために、自然を描くのに苦労するのではないか。

イーヴリン・ウオー「一握の塵」あらすじ
代々受け継がれてきた屋敷の保守管理をすることだけが自分の人生だと思っている地方の平凡な名士がいる。彼の妻は、そういう平坦な人生に飽きたらず頻繁にロンドンに出かけるようになり、そこでひとりの男と逢い引きを重ねるようになる。そんなことで夫婦仲がぎくしゃくしていたところに、一人息子(15歳ぐらい)が乗馬の事故で死んでしまう。絶望した主人公はロンドンの名士クラブで知り合った学者に誘われてアマゾン流域の探検に出かけるのだが、探検の途中で船が川に流されて学者は死に、主人公は、アマゾンの奥地で小王国のようなものを作っている男に助けられる。男はディケンズの小説に心酔しているのだが、自分は文盲なので読めない。主人公は、男に助けられはしたものの、小王国からでることができず、残された人生をひたすらディケンズの小説を朗読することで終える。

小説はリアリティがあるからおもしろいのではなく、おもしろい小説には何らかのリアリティがある。

ある一つの出来事なりイメージなりがあるからといって、それを短編小説にして書いてしまうことがいまではほとんどの場合、「違う」ことになってしまうのではないかとわたしは感じるのだ。

出来事的なおもしろさを短編小説という一定の長さをもって作品として体裁を与えられているものにしてしまうと、瑕疵が生まれてしまう。

呪術が力を持っている社会を、科学的思考様式で測ることは根本的に不可能なのではないか。(文化人類学の限界)

分裂病気質をもつエチオピア人はたとえば椅子を作らせると外見はとんでもなくめちゃくちゃなのだが、すわってみると驚くほど座り心地がいい椅子を作る。彼らは見てくれをよくするという神経症的な発想が皆無である。


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ミシェル・レリス 幻のアフリカ(岡谷公二訳)

コノの家の前で僕たちは待つ。村長はまったく打ちひしがれている。コノの首長は、そういうことなら呪物は持って行ってもかまわないと言った。しかし、僕たちと一緒にいた数人の男がちのおそれようといったら、この冒涜によって実際に僕たちまでが興奮し、自分をはるかに超えた世界に一気に投げ出されたような気になったほどだ。
みなが拒否するので、僕たちが自分でそこにいき、聖なるものを雨覆いにくるみ、盗賊のように外にでる。一方、狂乱状態の首長は逃げ出して、いくらか離れたところで、自分の女房や子供たちを棒でぴしぴし叩きながら、小家へ帰らせている。
僕たちはまったく人気のなくなった村を通って、死んだような沈黙のうちに、車に着く。僕たちが少し離れたところに集まっている。首長に10フラン与え、僕たちは、みんなの驚愕のさなかと、悪魔の、あるいは並外れて協力な、神も畏れぬならず者の後光に包まれて、急いで出発する。
宿泊所に着くとすぐ、僕たちは分捕り品の荷を開ける。大きな仮面だ。なんとなく動物らしい形で、あいにく毀れているが、血の固まったかさぶたですっかり覆われていて、血があらゆるものに与える威厳を、この仮面にも授けている。
・・・僕は自分が白人で手にナイフさえ持っていれば、ずいぶん自信が持てるものだと気づいて、呆然とする。その気持ちは、しばらく経つとすぐ、嫌悪に変わる。
・・僕と突き動かすのは、涜神と言う考えだ。
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植民地支配は武力を背景にしてなされているわけではあるが、武力、つまり個々の身体能力ではない組織的な暴力に屈したとしても、文化や精神まで屈する根拠にはならないはずなのに、ヨーロッパ人は自分の論理をアフリカ人に押しつけるが、アフリカ人はヨーロッパ人のように自分たちの論理とか世界観とかが通じるものとはまったくなく、根こそぎされることを畏れて隠すだけのようにしか見えない。早い話が、アフリカ人は力も知も劣るダメ人間にされてしまったわけだが、アフリカ人の思考様式をダメなものにこちら側の人間に見せるだけでなく、アフリカ人本人たちにもダメと思わせてしまうのも(説得力)が、シナイ半島の片隅に生まれたと俗に言われているユダヤ教を起源とする思考様式にはあるのだ。

(説得力とは)言葉によって相手の気持ちを支配してしまうことだとか、そもそも言い分と言い分をすり合わせしてどちらか一方を優位とする行為だとか、そのような言葉による接触というのが人間にはあって、それによって生じた「もっともらしさ」の度合いがそのまま、現実を背負って生きている人間同士の力関係の有利・不利を決定づけてしまうという、非常に不可解な言葉の作用のこと。

小島さんにとっておもしろいと感じられるものは、その場で逐語的に解釈することがむずかしく、長い間それについていろいろ考えをめぐらすことができるものだった。

「軍隊は軍隊ですから、自分が生きて帰ってこれるとも思っていないし、帰ったら小説を書きたいとも思いもしなかったですよ。小説を書きたいとか、何をしたいとか、そんな個人の自由にかかわるようなことは軍隊というところにいたらぜんぜん考えられないんですよ。軍隊とはそういうとkろなんですよ」
「いざ戦争にいってしまったら、あなたはもう「こんなところで死にたくない」ということすれ思うことができなくなっている」(小島信夫

戦争がいいとか必要悪だとか、あるいは戦場で人間の真の姿が現れるだとか言う人はみんなどこかにロマンに足をすくわれている。戦争は小説で読んだり映画で見たりして涙を流したりするようなものではない。「墓碑銘」を読むと、心の底から「こんなところで死にたくない」と思わせられる。

「人間と人形の比較について、クリティアスと対話したプラトンの創造になるアテネ人によると、前者は情熱で、後者は糸で動くことになります」

形而上学は、物理学のように時間は問題とされない。時間という係数の影響を受けるのは、物質だけであって、形而上学では時間は関係ない。

人はわかっているようにわかることしかできない。「わかっている」というとき、人はほとんどの場合、わかっていない部分を見ていない。だから「わかっている人はよくわかっていない」この命題は、わかっている人にもわかっていない人にも当てはまる。

個人的な出来事と作品の題材は、書いた本人も説明がつかない何重にも屈折したつながりかたをしている。

「小島さんが死んでも私がぜんぜん悲しみを感じない理由は、小島さんが小説家として完全に言語の世界にいきていたからだったのではないか」と言う結論にたどり着きたくて、ずうっと書いてきているのだが、現実に時間の中に存在し、肉声によって私としゃべった人間でもあったのだから、私自身の記憶やいろいろな要素を切り捨てて、期待する結論だけを簡単に導き出すにはいかないのだ。

注意深く読むのに値する書き方をどれだけしているかが重要であって、それが実現されてる限り、最後にくる解釈なんてどうでもいいということになる。

私たちはある限定された思考様式の中で生きていて、それを短期間で変えることなんか不可能で、変えるためには恒常的で、一貫し、総体的な努力や試みを必要とする。

悟りというのは日々の修行を重ねる中で一瞬ないし、ごく短時間だけ訪れる覚醒だから、一度悟りを経験したからといってもそれが永続することはない。それゆえ修行を続けて何度でも悟りを経験しなければならない。

作っている最中のごくみじかい時間だけ、この感じとか、このまま行けばいいという揺るぎない感じが生まれる。・・日常的な思考法ではそういう状態を不安定といったり、実体がないと否定したりしがちだが、作る人間にとっては短い時間だけ感じる揺るぎのなさこそが実体なのだ。

図というものは自分の実感から生まれたものを極力忠実に描こうとすると言葉以上に難解になることが普通である。

殺人でも自殺でも、そこに至るプロセスを小説的に丁寧に積み上げていけばいかにも必然的に逃れようのないものと映るけれど、最後の決定的なアクションの寸前に大爆笑がその人を襲えば、全部吹っ飛ぶようなものではないか。

水面にキラキラ反射する光に心を奪われたりしているときには、自我なんか関係ない。それが何か名前を付けることなんか問題ではなくて、そのような状態に自分がなったことだけを覚えていればいい。

人間が芸術をつくるのではなく、芸術が人間をつくるようにしむけられる。人間と芸術の関係においては、主は人間ではなく芸術の方にある。

人の認識とは中途半端で安易なところで妥協するように宿命づけられているようなものだから、わかろうとして認識すること、認識したつもりになることを徹底して否定するしかなかったということだろう。ユダヤ教イスラム教でイコンを禁じていることと同じことではないか、と思う。人は形としてみることでわかったと思いがちだからだ。

わたしは偶然うまくいったり、偶然誰かと出会ったりすることが大好き、というか、偶然による力を信用しているのだ。

小説家にとって実体なのは何か。言葉。と答えるのは簡単だけれど、もしかしたら、「胡蝶の夢」のような話の小さなユニットなのではないか。映画のワンシーンよりも少し長く、物語よりずっと小さい。そういえばカフカが遺した断片もそのサイズだった。それらは物語化されないがゆえに私たちを世界へ連れていくのではないか。(カフカの断片)「何年も前に、このセーヌで入水自殺したという身元不明の美しい女。あまりに美しかったので、死体置場で人々がそのデスマスクをとったというあの女」

「とりわけ患者を理解しないようによくよく注意しなければなりません。理解してしまうことほどみなさんを惑わすことはありません。患者は頭もしっぽもないことをしゃべりますが、わたしにそのようなことを報告しながら「彼が言いたかったことがこれだということがわかりました」と言うひとがいます。これは、その前に立ち止まらなくてはならない理解できないものを、たんに知性の名の下に巧みに避けているにすぎません」(ラカン

計測するだけでは不十分であって、理解しなければならないのだが、ひとは何でもかんでも理解してしまう性癖があり、すぐに理解に走ってしまうことによって、注意深く耳を傾けなくてはならないところを黙殺してしまうのだ。・・・結論や断定が早い人、こちらの言おうとしていることをきちんと聞かずに早々に切り上げてすぐに決めつけてしまう人、そういう人たちのことを嫌いだった子供たちが、大人になって文学や音楽や美術やダンスをしているはずなのに、評論や書評という何かを論じる場が与えられるとどうして理解に走る人間になってしまうのか。

私は大学生の頃から、「それがいかにも素晴らしいか」というような骨董品をなで回すような事後的な文章には興味がなくて、音楽や小説を自分の生きている世界の一要素として循環させるとでもいえばいいか、そういう働きかけが存在するサイクルをイメージできるような文章にしか動かされなかった。

人はあれもできるこれもできるという可能性の集合体なんかではなくて、「わたしにはこれしかできない」と気づいたときにようやく何かができるようになる。これはもちろん「分数のわり算ができないのが私の個性です」という変な居直りとはぜんぜんちがう。分数のわり算ができないから数学者になるようなものだ。フラクタル幾何学ブノワ・マンデルブロは代数がまったくできず、全ての数式を図形に置き換えて答えを導き出す子供だったという話を聞いたことがあるが、それが本当なら、まさに彼こそが分数のわり算ができないことを個性とした数学者ということになる。

「自己のナルシシズムを最大限に放棄して、対象愛を求めようとしている男性にとっては、ナルシシズムをそのまま維持している人間が、非常に強い魅力を発揮するのは確かであろう。子供の魅力の多くは、そのナルシシズム、自己満足性、近づきがたさによるものである。また、われわれのことが眼中にないように見える動物たち、たとえば猫や犬型の禽獣などの魅力もこれと同じ根拠で生まれるのである。あるいは、詩的な作品に描かれた極悪な犯罪者や、諧謔家が読者の興味をそそるのは、こうした人物には、自分の自我を貶めるようなすべてのものを遠ざけておくナルシシズム的な一貫性があるためである。あたかもこうした人物は、われわれがすでに捨て去ってしまった幸福な心的状態を維持し、リビドーが傷つけられない状態を保持していることを、われわれは羨むかのようである」(フロイト

小説を書くと言うことは、社会全体に流布している価値とは別の価値による領土を作ることだ。

戦争の資料というものは、本質において戦争を不可避とする思想においてかしか作られていず、その他はない。戦争の資料で、これだけの条件がそろったときに歴史上戦争がおきてきたといっても、すべて戦争が起きた資料から導き出した条件であって、その視点からは同じ条件がそろったときに戦争が起きなかったケースは漏れているのだし、それより何よりかつて世界経済と現在の世界経済はつねに違うのだから本当いって、歴史からは学びようがない。

周到に作り込まれたものの場合、読み込むうちに著者が意図した正解のような、ある程度図式化された、つまりわりと単純な言葉で指し示せるものが浮かび上がってくる。

われわれは自分自身による以外には、世界への通路を持っていない。(ニーチェ

数えられるもの、手に取れるものはすべて、われわれにとってほとんど価値のないのものである。「概念化」によってはうまく行かないものこそ、われわれにとって「高等」なものなのである。(ニーチェ

書き手にとって重要度の高い言葉ほど、意味を確定するのが難しく、その言葉は使われるそのつど膨らんだり、収縮したりズレたりする。

生命は生存のために最も有利な形態へと行き着く。・・その形態によって世界と接し、生きて子孫を残すための工夫をする。その工夫こそが生命それぞれの「思考」なのだ。生命が世界と接する為の行為や形態のすべてを思考と考えなくては、私たちの中で起こっている活動を理解することはできない。

小説では表現されるすべてが「思考」なのだ。

チンパンジーの知能を研究している人はチンパンジーを研究室の中に閉じこめて、チンパンジーにパソコンのモニターにタッチさせて単語や数を覚えさせているが、チンパンジーにとっては森の中で高い木の枝から枝へぽんぽん飛び移ることとか、食料としての植物を見分けられることという、それら全体がチンパンジーの思考なのであって、研究室の中で単語やものを見分けられることという、それら全体がチンパンジーの能力なのであって、研究室の中で単語や数を数えることは、チンパンジーのもつ能力のごく一部を人間的すぎる視点から計測しているにすぎない。

わたしたちは、小説でも映画でもダンスでも絵でも音楽でも、人為的に表現された芸術を受容するとき、「理解の落としどころ(着地点)」とでもいうべき呪縛にかかっている。

言葉は惜しげもなく通り過ぎられていく。通り過ぎてどこにいくのか。風景へだ。(→風景とは作品全体に流れるトーンの意味ではないか)

生命は際限のないプロセスの中だけにいる。生まれて、成長して、繁栄して、没落する。それが生命であり、つまり生成である。

世界を静的なモデルによって認識することではなく、自分がもっているすべてを使って世界に接すること。生命がやっているのはそういうことであって、それが思考である。

私は統合失調症の夢物語をきいていつも感じる特徴が一つある。それは音楽における休止符がないことである。「場面転換」というべきか。とにかく、短い空白部をおいて、「お話変わって」となることである。たとえば怪獣に追われて逃げていると場面が変わって一面のお花畑に出ることである。実人生においてもそういったハプニングが必要なのであって、必然性だけで人生を考えると必ず暗いものになってしまう。

実人生の中で経験する充実感や生き甲斐の原型は夢にあるのではないか。野球・サッカー・格闘技など、大人になっても本気で熱中することができるスポーツもまた原型は夢にあるのではないか。実人生における本気・真剣・充実・熱中というような心のリアリティにとっては、夢こそが主であって、覚醒時のリアリティはすべて夢からリアリティの活力を受け取っているのではないか、ということだ。

人間は内側からしか知ることができない。これは「世界は俯瞰できない」などと同じ意味だ。何か対象について考えるためには冷静である必要があるといまだに多くの人に誤解されているが、知ろうとする人間を対象の位置ではなく、当事者と同じ時間を生きようとしなければ人間を知ることはできない。

人間は、時間以外の何ものでもない。

画家や音楽家は言葉でも表現できることを絵や音楽にして表現しているのはなく、絵でしか表現できないこと、音楽でしか表現できないことを表現しているのだ。

私たちが木を見ているとき、私たちは木の時間を見ている。

芸術とは、細部の正確さにとらわれてしまう思考様式とそれが生み出した現代の世界の覆い尽くしつつある思考様式に対峙する、人間と自然の領域なのだ。

その場の空間を所有するには、自分がなにかを付加しなければならない。(若林奮(いさむ))

空気中に見えた植物のうち、地表面から自分の背の高さまでの部分は触覚である。それを超える樹木の上層は視覚であり、地下は想像に属している(若林奮)

「わかる」というのは独特な心の状態だ。わかったからといって、それを人に言葉で説明できるわけではない。「真理」という言葉の本当の意味は、心のその状態のことだろう。それを、科学的なり、合理的なり、客観的なりに分析してみても、そこには何もない、のかもしれない。

美はその力と関連している

孤独のうちにある個人こそ、長編小説が生まれる産屋なのである。(ベンヤミン

「わかっていない人」を想定しだすときりがなく、ずぶずぶとくだらない話になるので、私は孤独の中の作業を知っている人か、それに敬意を払う人に向けてしかこの連載を書いていない。「わかっていない人」を論駁している暇はない。もう一方の人たちを激励することが今は必要なのだ。

「西域八年」のような本に出会うと、「ああ、自分の本もいつかこのようにして、偶然手にとって読んだ人が、「おもしろい小説だなあ」と思うことがあれば、それでじゅうぶんじゃないか。それこそが小説というものじゃないか」というリアルなイメージを持つことができる。

運命と聞くと、すぐに「努力は無駄だ」「意思は無意味だ」と考える人がいるが、私は筋金入りの運命論者だったから、努力も意志もすべて肯定した「結末が決まっている」ことは「結末がわかっている」ことではないのだから、わかっていない結末に向かって努力しなければならない。

一度きりの人生さ、なんてそんな気楽なことを行っている場合ではない。いまここで解決できなければ、解決できない人生を何度でも生きることになる。次の人生での解決が活かされるとか、活かされないとかというような生やさしいことではなく、この人生で解決できなければ次の人生でも解決はありえない。しかも悪いことに、わたしは「まったく同じ人生を何度でも繰り返す」ということを知ってしまっているのだから、次の人生での自分の悲しみを今の人生で経験することはなくても、次の人生で自分が悲しむということは明確に知っている。なぜなら、いま知っているのだから。

いかにもロックというものはロックではない。

「何々にすぎない」を使ったセンテンスはどんな風にも作ることができるために、そのとたんに問題が問題ではないように見えてしまう。

ノストラダムスの予言や祖母から聞かされた地獄への恐怖が大人になっても熾火(おきび)のように消えずにくすぶり続けるように、子供時代は別の公理系を受け入れやすく、一度受け入れてしまった公理系は知的な情報がどれだけ上乗せされても、一掃されることはない。

文学者や哲学者は言い回しを比喩の次元でとらえることが実に多く、その悪影響はそれ以外のふつうの人たちの普段の会話にも及んでいる。その人たちは本当に大事な受け容れがたいことまで比喩としてきいてしまう。その意味で、「文学は死んだ」という言い方はぜんぜん正しくない。ぶんがくは世界に蔓延している。なんでもかんでも比喩にしてしまう文学的な考えが私は大嫌いなのだ。

設計図は当然なにもない。一つの文章の次に何をつなげたらおもしろいかというその原動力だけで書いている。

作者とはまさに演奏者なのだ。以前も私は、牧羊犬と羊の群のたとえを出したことがあるが、作者というものは羊の群をうまくコントロールできない出来の悪い牧羊犬か羊の群そのものであることが理想なのだ。

百年の孤独」を「この小説はいったい何がいいたいのか」というつもりだけで読んだっておもしろくない。「百年の孤独」は一場面ごとのおもしろさが生命線だ。

チェスの駒は、自分たちがプレイヤーによって導かれていることを知らないし、プレイヤーは神に導かれていることに気づいていない。そして、神は、他のいかなる神が彼を導いているのか知らない。

無意識なのだが、わたしは考えれば考えるほど、個人の中でなく外にあるとしか思えない。言語は人間の外にあって人間よりも大きな広がりのある網目とか織物と考えられているが、無意識も言語と同じことで、個人の中に収まってはない。個人の中にある「ある」とか個人が「持っている」とか、そういうイメージで考えてはいけないのだ。

孤独の所産はどれも違う姿をしている。それゆえ通約できない。つまり、あれもこれも使える尺度なんてない。そのつどそのつど接し方を探さなければならない。樫村晴香が書いている「一つの観念・世界観を表象するための比喩ではなく、それ自体が伝達されるべき実体であり、それゆえ要約不能である」というのも同じ意味だろう。

36回の連載を通じて私はほとんどの小説を追い越してしまったようにも感じている。なんといえばいいか、読む前からそういう小説があることを知っていて、読みながらどれだけ新しいことを知ったり、強い刺激を受けたからと言って、それがすでに知っていた小説とう領域の中でなされたものであるかぎり、わたしにとって関心の対象ではない、というここまではいまさらいうまでもないこととして、私には一流打者が投手の手から離れた球が止まって見えるというように、小説が止まって見えるようになった。これと全くおなじ意味だが、小説が動いてしょうがなく観える瞬間も持つようになった。