断片の集積

 あらすじを覚えていない小説でも、あるシーンだけが妙に記憶に刻まれていることがある。自分は、かつて読んだ「ねじまき鳥クロニクル」の、捕らえられた日本人スパイが全身の皮を剥がれ性器を切り取られ惨殺されるシーンをいやに鮮明に憶えているが、このシーンが小説の中でどのような文脈で描かれたのかは、まるで思い出せない。

もしかするとこの一幕は、もとよりなんの物語的な必然性はなく、作者だけが自覚している内なる欲望、ひらたくいうと「書きたかったから書いた」だけのシーンなのかもしれない。

人間の行動も、前後に何の脈絡もなく「ただ単にそうしたかったから」なされたものが、けっこう多いのではないだろうか。

人間がその人生を終えるとき、頭に去来するものは自身の来し方の旅路であろうか。自分にはそうは思えない。人生は、ストーリーのある動画というより、断片的な画像の集積であり、きっと、いまわの際で想起するのは、その中で最も解像度が高いものたちだろう。

自分の記憶のデータベースにどのような画像があり、どれが最後に飛び出してくるのか、それはその時になってみないと分からない。得意絶頂の刹那かもしれないし、幸福の頂上からの眺めかもしれないし、生涯ぬぐい切れなかったトラウマが生まれた瞬間かもしれないが、案外、何ということもない日常生活の一シーンかもしれない。