千葉に吉田博展を見にいく 2016年5月1日


最寄駅の歩道橋の階段で、強い日差しの下、さして汚れているようにも見えない手すりを雑巾がけしている人を見る。どういう指示を受けて、どういうモチベーションで、この人はこの作業をしているのかが気になる。


駅のホームで、彼氏とおぼしき男性の横で盛大に化粧を直している女性を見る。もしかすると、あなたにはこんな姿を見せるまで心を許している、というアピールなのかもしれないが、男性によってはバカにされているようにも受け取る可能性がある。


以前から気になっていたポスター。形容する言葉がみつからないが、とにかく、とてもいい顔をしている。人間の顔は、少数派になるにしたがって引き締まり、多数派になるとだらしなくなる傾向がある・・のかもしれない。


工事中だったJR千葉駅。通路にはこれでもかというほど「東口」に誘導するサインが掲示してある。千葉の人は心配性なのか、それとも親切なのか、それとも親切とは心配性が顕在化する一つの形ということなのだろうか。


中央公園。そういえば今日はメーデーだった。プラカードの内容(反戦争法制、反原発、反TPP)にはすべて同意だが左翼は嫌い。


公園内のヘレン・ケラー銅像。台座に下の言葉が彫り込んである。

「あなたのランプの灯を
今少し高く掲げて下さい
見えぬ人の行く手を照らすために」

足下を照らすだけで汲々としている自分が言うのもなんだが、とてもいい言葉だと思う。


自宅を出てから二時間半、目的の場所(千葉市美術館 吉田博展)に到着。新聞の文化欄の紹介記事を読んでから気になっていた。

(以下紹介する画像は実物の味わいとはまるで別物である。)


一部のリアリズム絵画が面白くないのは、写真にどれだけ近づいたかを画家の腕前の判定基準にしているからだ。写真への挑戦は、コンピュータに記憶力の戦いを挑むぐらい不毛なことだと思う。人間が描く以上、写真では表現できないものが表現できていなければ(極端な言い方をすれば)絵にする意味などないのに。
浅間山」(水彩画)


飛行機やらドローンやらを使えばいろいろなアングルから写真がとれるようになったが、それ以前は、そこに行かなければ見ることができない景色、というものがあった。その風光は行ったものだけが味わえ、自ずと価値も違ったのである。
穂高山」(油彩画)


浮世絵は絵師と彫師と摺師の共同作業で、これは商業ベースに乗せるために必要な効率への志向でもあったが、吉田の版画は商売を度外視していたから、彼は彫師では形にできないと判断した部分は自分で彫ることもあったという。
「雲海 鳳凰山」(木版)


吉田博は木版画における絵師をオーケストラにおける指揮者になぞらえているが、個人的には、ピアノ協奏曲において、ピアニストと指揮者を兼ねるアシュケナージのような存在に近いと感じている。
「ナイヤガラ瀑布」(木版画


吉田博の木版画はかつての北斎や広重を凌駕したレベルにあると思う。かといってモールスの栄光がインターネットの世の中でも少しも色あせないのと同じく、これは北斎や広重が吉田の下風に立ったことを意味しない。
「ベナレスのガット」(木版画

会場には途中休み休みながら四時間滞在。初めて目にする吉田博の凄さを反芻しながら、中央公園まで戻ると、そこはメーデーの集会場ではなく、ヲタの皆さんのコンサート会場になっていた。