言葉の定義について

無神論者を標榜する人の言い分を聞くと、彼らが神を元素記号で表現できるような物質的実在だと定義していることに気づく。もちろん神をそんなものに定義づけてしまえば神なぞ存在するわけがなく、そんなことになると困るから、ユダヤ教イスラム教は神のアイコン化(偶像崇拝)を固く禁じているわけである。

一般に、あるテーマを議論するのならは、まずテーマの定義づけから始める必要がある。これを行わない議論は往々にして平行線あるいは水掛け論に終わる。神をテーマにした議論においてもその事情は基本的には同じなのであるが、神についての議論が特異なのは、神を定義するステータスいわば下打ち合わせそのものが、神の存在に関する議論の本質と化するところにある。

議論や論争というものはとどのつまりは「テーマをどう定義づけるか」を巡ってなされることも多く、人間や社会にとってそのテーマが本質的でシリアスであればあるほど、その傾向は強まっていくような感じがある。

たとえば、「人間にとって教養は必要か」という議論をする前には「教養」という言葉の定義づけが必要だが、教養無用派と教養必要派ではおそらく「教養」の定義からしてまるで違っており、その定義を巡る下打ち合わせがそのまま本題の議論へスライドし、発展することになる。

そして「定義」とは、おそらく言葉の概念の論理的枠組みを規定することではなく、その言葉のニュアンスを感じとることである。(と、自分は定義という言葉を定義する(笑))

その文字が並んでいる姿をみるだけで、その文字が読まれる音をきくだけで、内面に確かに拡がるある感覚や感情、それが言葉のニュアンスを感じ取ることすなわち言葉を定義づけることでもあり、その感情や感覚の他者との共有度合が、広ければ広いほど、深ければ深いほどその定義は正確だということになる。